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ねずみ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「鎧櫃の血」 光文社文庫、光文社
1988(昭和63)年5月20日
入力者小林繁雄、門田裕志
校正者松永正敏
公開 / 更新2006-07-04 / 2014-09-18
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 大田蜀山人の「壬戌紀行」に木曾街道の奈良井の宿のありさまを叙して「奈良井の駅舎を見わたせば梅、桜、彼岸ざくら、李の花、枝をまじえて、春のなかばの心地せらる。駅亭に小道具をひさぐもの多し。膳、椀、弁当箱、杯、曲物など皆この辺の細工なり。駅舎もまた賑えり。」云々とある。この以上にわたしのくだくだしい説明を加えないでも、江戸時代における木曾路のすがたは大抵想像されるであろう。
 蜀山人がここを過ぎたのは、享和二年の四月朔日であるが、この物語はその翌年の三月二十七日に始まると記憶しておいてもらいたい。この年は信州の雪も例年より早く解けて、旧暦三月末の木曾路はすっかり春めいていた。
 その春風に吹かれながら、江戸へむかう旅人上下三人が今や鳥居峠をくだって、三軒屋の立場に休んでいた。かれらは江戸の四谷忍町の質屋渡世、近江屋七兵衛とその甥の梅次郎、手代の義助であった。
「おまえ様がたはお江戸の衆でござりますな。」と、立場茶屋の婆さんは茶をすすめながら言った。
「はい。江戸でございます。」と、七兵衛は答えた。「若いときから一度はお伊勢さまへお参りをしたいと思っていましたが、その念が叶ってこの春ようようお参りをして来ました。」
「それはよいことをなされました。」と、婆さんはうなずいた。「お参りのついでにどこへかお廻りになりましたか。」
「お察しの通り、帰りには奈良から京大阪を見物して来ました。こんな長い旅はめったに出来ないので、東海道、帰りには中仙道を廻ることにして、無事ここまで帰って来ました。」
「それではお宿へのおみやげ話もたくさん出来ましたろう。」
「風邪も引かず、水中りもせず、名所も見物し、名物も食べて、こうして帰って来られたのは、まったくお伊勢さまのお蔭でございます。」
 年ごろの念願もかない、愉快な旅をつづけて来て、七兵衛はいかにものびやかな顔をして、温かい茶をのみながらあたりの春景色を眺めていると、さっきから婆さんと客の話の途切れるのを待っていたらしく、店さきの山桜の大樹のかげから、ひとりの男が姿をあらわした。かれは六十前後、見るから山国育ちの頑丈そうな大男で、小脇には二、三枚の毛皮をかかえていた。
「もし、お江戸のお客さま。熊の皮を買って下さらんかな。」と、彼は見掛けによらない優しい声で言った。
 熊の皮、熊の胆を売るのは、そのころの木曾路の習いで、この一行はここまで来るあいだにも、たびたびこの毛皮売に付きまとわれているので、手代の義助はまたかという顔をして無愛想に断った。
「いや、熊の皮なんぞはいらない、いらない。おれ達は江戸へ帰れば、虎の皮をふんどしにしているのだ。」
「はは、鬼じゃあるまいに……。」と、男は笑った。「そんな冗談を言わないで、一枚おみやげに買ってください。だんだん暖かくなると毛皮も売れなくなる。今のうち廉く売ります。」
「…

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