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山越しの阿弥陀像の画因
やまごしのあみだぞうのがいん
作品ID45498
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集32」 中央公論社
1998(平成10)年1月20日
初出「八雲 第三輯」1944(昭和19)年7月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2007-03-17 / 2014-09-21
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

極楽の東門に 向ふ難波の西の海 入り日の影も 舞ふとかや
渡来文化が、渡来当時の姿をさながら持ち伝へてゐると思はれながら、いつか内容は、我が国生得のものと入りかはつてゐる。さうした例の一つとして、日本人の考へた山越しの阿弥陀像の由来と、之が書きたくなつた、私一個の事情をこゝに書きつける。
「山越しの弥陀をめぐる不思議」――大体かう言ふ表題だつたと思ふ。美術雑誌か何かに出たのだらうと思はれる抜き刷りを、人から貰うて読んだのは、何でも、昭和の初めのことだつた。大倉粂馬さんといふ人の書かれたもので、大倉集古館にをさまつて居る、冷泉為恭筆の阿弥陀来迎図についての、思ひ出し咄だつた。不思議と思へば不思議、何でもないと言へば何のこともなさゝうな事実譚である。だがなるほど、大正のあの地震に遭うて焼けたものと思ひこんで居たのが、偶然助かつて居たとすれば、関係深い人々にとつては、――これに色んな聯想もつき添ふとすれば、奇蹟談の緒口にもなりさうなことである。喜八郎老人の、何の気なしに買うて置いたものが、為恭のだと知れ、其上、その絵かき――為恭の、画人としての経歴を知つて見ると、絵に味ひが加つて、愈、何だか因縁らしいものゝ感じられて来るのも、無理はない。
古代仏画を摸写したことのある、大和絵出の人の絵には、どうしても出て来ずには居ぬ、極度な感覚風なものがあるのである。宗教画に限つて、何となくひそかに、愉楽してゐるやうな領域があるのである。近くは、吉川霊華を見ると、あの人の閲歴に不似合ひだと思はれるほど濃い人間の官能が、むつとする位つきまとうて居るのに、気のついた人はあらうと思ふ。為恭にも、同じ理由から出た、おなじ気持ち――音楽なら主題といふべきもの――が出てゐる。私は、此絵の震火をのがれるきつかけを作つた籾山半三郎さんほどの熱意がないと見えて、いまだに集古館へ、この絵を見せて貰ひに出かけて居ぬ。話は、かうである。ある日、一人の紳士が集古館へ現れた。此画は、ゆつくり拝見したいから、別の処へ出して置いて頂きたいと頼んで帰つた。其とほりはからうて、そのまゝ地震の日が来て、忘れたまゝに、時が過ぎた、と此れが発端である。正の物を見たら、これはほんたうに驚くのかも知れぬが、写真だけでは、立体感を強ひるやうな線ばかりが印象して、それに、むつちりとした肉おきばかりを考へて描いてゐるやうな気がして、むやみに僧房式な近代感を受けて為方がなかつた。其に、此はよいことゝもわるいことゝも、私などには断言は出来ぬが、仏像を越して表現せられた人間といふ感じが強過ぎはしなかつたか、と今も思うてゐる。
この絵は、弥陀仏の腰から下は、山の端に隠れて、其から前の画面は、すつかり自然描写――といふよりも、壺前栽を描いたといふやうな図どりである。一番心の打たれるのは、山の外輪に添うて立ち並ぶ峰の松原である。その松原ごしに…

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