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山越しの阿弥陀像の画因
やまごしのあみだぞうのがいん
作品ID45499
著者折口 信夫
文字遣い旧字旧仮名
底本 「折口信夫全集 第廿七巻」 中央公論社
1956(昭和31)年11月5日
初出「八雲 第三輯」1944(昭和19)年7月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2007-03-17 / 2014-09-21
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

極樂の東門に 向ふ難波の西の海 入り日の影も 舞ふとかや
渡來文化が、渡來當時の姿をさながら持ち傳へてゐると思はれながら、いつか内容は、我が國生得のものと入りかはつてゐる。さうした例の一つとして、日本人の考へた山越しの阿彌陀像の由來と、之が書きたくなつた、私一個の事情をこゝに書きつける。
「山越しの彌陀をめぐる不思議」――大體かう言ふ表題だつたと思ふ。美術雜誌か何かに出たのだらうと思はれる拔き刷りを、人から貰うて讀んだのは、何でも、昭和の初めのことだつた。大倉粂馬さんといふ人の書かれたもので、大倉集古館にをさまつて居る、冷泉爲恭筆の阿彌陀來迎圖についての、思ひ出し咄だつた。不思議と思へば不思議、何でもないと言へば何のこともなさゝうな事實譚である。だがなるほど、大正のあの地震に遭うて燒けたものと思ひこんで居たのが、偶然助かつて居たとすれば、關係深い人々にとつては、――これに色んな聯想もつき添ふとすれば、奇蹟談の緒口にもなりさうなことである。喜八郎老人の、何の氣なしに買うて置いたものが、爲恭のだと知れ、其上、その繪かき――爲恭の、畫人としての經歴を知つて見ると、繪に味ひが加つて、愈、何だか因縁らしいものゝ感じられて來るのも、無理はない。
古代佛畫を摸寫したことのある、大和繪出の人の繪には、どうしても出て來ずには居ぬ、極度な感覺風なものがあるのである。宗教畫に限つて、何となくひそかに、愉樂してゐるやうな領域があるのである。近くは、吉川靈華を見ると、あの人の閲歴に不似合ひだと思はれるほど濃い人間の官能が、むつとする位つきまとうて居るのに、氣のついた人はあらうと思ふ。爲恭にも、同じ理由から出た、おなじ氣持ち――音樂なら主題といふべきもの――が出てゐる。私は、此繪の震火をのがれるきつかけを作つた籾山半三郎さんほどの熱意がないと見えて、いまだに集古館へ、この繪を見せて貰ひに出かけて居ぬ。話は、かうである。ある日、一人の紳士が集古館へ現れた。此畫は、ゆつくり拜見したいから、別の處へ出して置いて頂きたいと頼んで歸つた。其とほりはからうて、そのまゝ地震の日が來て、忘れたまゝに、時が過ぎた、と此れが發端である。正の物を見たら、これはほんたうに驚くのかも知れぬが、寫眞だけでは、立體感を強ひるやうな線ばかりが印象して、それに、むつちりとした肉おきばかりを考へて描いてゐるやうな氣がして、むやみに僧房式な近代感を受けて爲方がなかつた。其に、此はよいことゝもわるいことゝも、私などには斷言は出來ぬが、佛像を越して表現せられた人間といふ感じが強過ぎはしなかつたか、と今も思うてゐる。
この繪は、彌陀佛の腰から下は、山の端に隱れて、其から前の畫面は、すつかり自然描寫――といふよりも、壺前栽を描いたといふやうな圖どりである。一番心の打たれるのは、山の外輪に添うて立ち竝ぶ峰の松原である。その松原ごしに…

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