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真鬼偽鬼
しんきぎき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「蜘蛛の夢」 光文社文庫、光文社
1990(平成2)年4月20日
初出「朝日グラフ」1928(昭和3)年6月
入力者小林繁雄、門田裕志
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2006-07-02 / 2014-09-18
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 文政四年の江戸には雨が少なかった。記録によると、正月から七月までの半年間にわずかに一度しか降雨をみなかったという事である。七月のたなばたの夜に久しぶりで雨があった。つづいて翌八日の夜にも大雨があった。それを口切りに、だんだん雨が多くなった。
 こういう年は、いわゆる片降り片照りで、秋口になって雨が多いであろうという、老人たちの予言がまず当った方で、八月から九月にかけて、とかくに曇った日がつづいた。その九月の末である。京橋八丁堀の玉子屋新道に住む南町奉行所の与力秋山嘉平次が新川の酒問屋の隠居をたずねた。
 隠居は自分の店の裏通りに小さい隠居所をかまえていて、秋山とは年来の碁がたきであった。秋山もきょうは非番であったので、ひる過ぎからその隠居所をたずねて、例のごとく烏鷺の勝負を争っているうちに、秋の日もいつか暮れて、細かい雨がしとしとと降り出した。秋山は石を置きながら、表の雨の音に耳をかたむけた。
「また降って来ましたな。」
「秋になってから、とかくに雨が多くなりました。」と、隠居も言った。「しかしこういう時には、少し降った方が気がおちついて好うござります。」
 ここで夕飯の馳走になって、二人は好きな勝負に時の移るのを忘れていた。秋山の屋敷ではその出先を知っているので、どうで今夜は遅かろうと予期していたが、やがて四つ(午後十時)に近くなって、雨はいよいよ降りしきって来たので、中間の仙助に雨具を持たせて主人を迎えにやった。
「明日のお勤めもござります。もうそろそろお帰りになりましてはいかが。」
 迎えの口上を聞いて、秋山も夜のふけたのに気がついた。今夜のかたき討は又近日と約束して、仙助と一緒にここを出ると、秋の夜の寒さが俄かに身にしみるように覚えた。仙助の話では、さっきよりも小降りになったとの事であったが、それでも雨の音が明らかにきこえて、いくらか西風もまじっているようであった。そこらの町家はみな表の戸を締切って、暗い往来にほとんど灯のかげは見えなかったが、その時代の人は暗い夜道に馴れているので、中間の持っている提灯一つの光りをたよりに、秋山は富島町と川口町とのあいだを通りぬけて、亀島橋にさしかかった。
 橋の上は風も強い。秋山は傘を傾けて渡りかかると、うしろから不意に声をかけた者があった。
「旦那の御吟味は違っております。これではわたくしが浮かばれません。」
 それは此の世の人とも思われないような、低い、悲しい声であった。秋山は思わずぞっとして振返ると、暗い雨のなかに其の声のぬしのすがたは見えなかった。
「仙助。あかりを見せろ。」
 中間に提灯をかざさせて、彼はそこらを見廻したが、橋の上にも、橋の袂にも、人らしい者の影は見いだされなかった。
「おまえは今、なにか聞いたか。」と、秋山は念のために中間に聞いてみた。
「いいえ。」と、仙助はなにも知ら…

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