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月光の下
げっこうのした
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」 学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日
入力者Hiroshi_O
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-11-30 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 空には清光のある夏の月が出て、その光に染められた海は広びろと蒼白い拡がりを持って静かに湛え、数日前大海嘯を起して、数万の人畜の生命を奪った恐ろしい海とは見えなかった。
 そこは陸中の某海岸であった。一人の壮い漁師は沙丘の上に立って、悲しそうな眼をして海のほうを見おろしていた。漁師は同棲したばかりの女房を海嘯のためにさらわれた者であった。双方で思い合って男の方では親が不承知を唱え、女の方でも親類から故障のあったのを、やっとの思いで押し除けるようにして、夫婦になっていたのであった。
 漁師はその二晩三晩海岸に出て、月の光の下に拡がった海を見入って、絶え入るような思いで女房のことを思っていた。それは風の無い夢の中のような夜で、後から後からと膨らんで来て、微白く磯に崩れている浪にも音がなかった。
 海嘯の起ったのは、陰暦の五月五日の夜であった。まだ陰暦で年中行事をやっている僻遠の土地では、その日は朝から仕事を休んで端午の節句をやっていた。壮い漁師の家でも隣家の者が二三人集まって来て、夕方から酒を飲んでいた。と、沖の方で大きなたとえば大砲を打ったような物音がして、それがどしりと地響きをさした。戸外に出て海の方を見ていた村の人の某者は、冥濛な海の果に当って、古綿をひきちぎったような雲が浮んで、それに電光がぎらぎらと燃えつくようになったのを見た。海嘯はその後からすぐ湧起って、家も人も一呑みにした。壮い漁師は、赤い手柄をかけた女房を引っ抱えるようにして裏口に出たが、白い牙を剥き出して飛びかかって来た怒濤に捲き込まれて、今度気が注いた時には、一人になって流れ往く松の枝にかきついていた。
 漁師の眼には涙が湧いていた。彼はその涙の眼をまた海の方へやった。と、磯の波打際に人影の動くのが見えた。それは海の中からあがって来たように、真直にこっちへ向いて歩いている。そして、次第に近づいて来るのを見ていると、その姿はどうも女らしかった。長い青光のする頭髪は乱れて、それが肩に靡いているように見えて来た。漁師は不思議に思いながら、じっとそれを見つめていると、それが女房のように見えて来た。漁師は眼を[#挿絵]った。それはたしかに女房の姿であった。微白く見える顔も、肩の恰好も、背たけも、歩き方も、皆懐しい女房であった。漁師は嬉しさがぞくぞくとこみあげて来た。彼は沙丘を走りおりて近づいた。それは波にさらわれたままの紺飛白の単衣を着た女房であった。頭髪も衣類もぐっしょりと濡れていた。
「おう、帰って来たか、俺は、お前のことを、どんなに心配していたか判らないぞ、よう帰って来た」と、漁師は嬉しさに声が縺れた。
 女は顔をあげて、漁師の顔を一眼見て、何も云わずにちらと悲しそうな表情を見せて、双手を膝のあたりに重ねるようにしてお辞儀をした。漁師は不思議に思って、女の手にかけようとした己の手を引込めた。と、…

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