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覚書
おぼえがき
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「鏡花全集 卷二 月報2」 岩波書店
1942(昭和17)年9月30日
初出「圖書」1940(昭和15)年3月号
入力者土屋隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2005-11-22 / 2014-09-18
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 泉鏡花先生は、天賦の才能を以て、極めて特異な思想感情を、あますところなく文字に表現し盡しておかくれになつた。凡そいかなる作家と雖も、一作を成すや直に、何か表現し切れないものゝ胸に殘つてゐる、あと味の惡さに惱むのが普通だらうが、泉先生にはそれが無かつたらしい。或は、先生自身にはかゝる惱があつたかもしれないが、少なくともその作品には、さういふ痕跡を止め無い。作者と作品の間に過不足がない。讀者の側で何か物足りなく思ふならば、それは先生の持合せてゐないものを求めてゐるのであつて、先生が持つてゐながら表現し殘したものでは無いのである。
 明治大正昭和を貫く我國近代文學を、くまなくあさり求めても、先生程描寫力の豐かな作家は外に無い。鴎外や漱石が、先生を第一位の小説家として推奬したのも、主として此の素晴らしい描寫力に敬服した故であらう。西洋古今の小説家中、最も逞しい描寫力を持つと極附のトルストイは、あらゆる場面、あらゆる人間を描いて、しかも心理描寫を伴ふ非凡の腕力を發揮したが、繪畫的描寫の一面丈を比べるならば、泉先生も亦彼に劣らぬ鮮かさを示された。但し、彼とこれと、西洋畫と日本畫の相違の存する事は言ふ迄もない。
 先生は、小説は物語であると考へ、この點に多くの疑をさしはさまれなかつたやうだが、それにもかゝはらず先生の作品は、眞直に筋を語るものではなく、描寫に次ぐに描寫を以てする場面の展開を辿り、決して口から耳に傳へる風のお話にはならなかつた。描寫に自信を持つ先生の文章は、暗示にかくれる形態でなく、豐富な文字の數をつくして、執拗に殘りなく描かなければ承知しない。どんな事でも描いて見せるぞと先生はきほつて居られた。先生はよく昔の藝道の達人の話をされ、何某の狂言師が狐の聲を發して飛上ると、あたりに獸の惡臭が漂つたとか、誰某の繪師が墨を以て描いた牡丹は、火焔の色に燃えたつたとか、さういふ類の藝談に及ばれた。況や文章の道に於ては、藝の極致に達する時、神業か鬼神力か、花を描けば芬々たる香を發し、草を描けば颯々たる風のわたる事も、まのあたりだと説かれた。眞實さういふ境地に到り得るものだと信じて居られた。此の場合、眼に見る儘を、精緻克明に寫すのは藝道の眞ではなく、先生は屡々物の風情をつかんで眞實を描かうとし、時には草双紙や浮世繪や演劇や能や狂言が幾代かを經て完成した姿に則る方法をえらばれた。自然派以來、現實の眞を追求するのが藝術の本道だと信じられたのに對し、先生は理想世界に之を求め、眼に見る可らざる境地に眞善美を創造された。又、心理探求の傾向を全然持つて居られなかつた爲め、人間は兎角類型的性格となり、内的發展は乏しかつたから、當然筋と場面の複雜怪奇が特徴となつた。平凡に其の日其の日の生活を送る隣近所には作者の感與をそゝる藝術境は無い。仲人が間に立つて、見あひをし、夫婦になり、乏しい月給…

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