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新しき声
あたらしきこえ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「明治文學全集 69 島崎藤村集」 筑摩書房
1972(昭和47)年6月30日
初出「文章世界 〈文話詩話〉號」1907(明治40)年10月
入力者広橋はやみ
校正者川山隆
公開 / 更新2008-06-23 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

       (一)

 同時代に生れ出た詩集の、一は盛へ他は忘れ去られた。「若菜集」と「抒情詩」。「若菜集」は忽ちにして版を重ねたが、「抒情詩」は花の如く開いて音もなく落ちて了つた。

 島崎氏の「若菜集」がいかに若々しい姿のうちに烈しい情※[#「執/れんが」、399-上-7]をこめてゐたかは、今更ここに言ふを須ゐないことではあるが、その撓み易き句法、素直に自由な格調、從つてこれは今迄に類のなかつた新聲である。予がはじめて「若菜集」を手にしたをりの感情は言ふに言はれぬ歡喜であつた。予が胸は胡蝶の翅の如く顫へた。島崎氏の用ゐられた言葉は决して撰り好みをした珍奇の言葉ではなかつたので、一々に拾ひ上げて見れば寧ろその尋常なるに驚かるゝばかりであるが、それが却て未だ曾て耳にした例のない美しい樂音を響かせて、その音調の文は春の野に立つ遊絲の微かな影を心の空に搖がすのである。眞の歌である。島崎氏の歌は森の中にこもる鳥の歌、その玲瓏の囀は瑞樹の木末まで流れわたつて、若葉の一つ一つを緑の聲に活かさずば止まなかつた。かくして「若菜集」の世にもてはやされたのは當然の理である。
 人々はこのめづらしき新聲に魅せらるゝ如くであつた。予も亦魅せられて遂に悔ゆるの期なきをよろこぶのである。新しきは古びるといふ。[#挿絵]ない世の言い慣はしだ。[#挿絵]ない世の信念だ。古びるが故に新しきは未だ眞正に新しきものではない。世に珍奇なるものは歳月の經過と共にその刺撃性を失ふこともあらうが、眞正に新しきものはとこしへに新しきもののいつも變らぬ象徴であらねばならぬ。島崎氏の出したる新聲は時代の酸化作用に變質を來さぬものであることは疑ひを容れないのである。
 然るに今日島崎氏の詩を斥けて既に業に陳腐の域に墜ちたものだといふ説がある、果してその言の如くであらうか。「若菜集」を讀む前にませて歪んだ或種の思想を擁いて居ればこそ他に無垢なる光明世界のあるのを見ないのであらう。輝ける稚き世――それが「若菜集」の世界である、[#挿絵]歌の塲である。こゝには神も人に交つて人間の姿人間の情を裝つた。されば流れ出づる感情は往く處に往き、止る處に止りて毫も狐疑踟[#挿絵]の態を學ばなかつた。自から恣にする歡樂悲愁のおもひは一字に溢れ一句に漲る、かくて單純な言葉の秘密、簡淨な格調の生命は殘る隈なくこゝに發現したのである。島崎氏はこの外に何者をも要めなかつた。宇宙人生のかくれたる意義を掻き起すと稱へながら、油乾ける火盞に暗黒の燈火を點ずるが如き痴態を執るものではなかつた。
まだ彈きも見ぬ少女子の
胸にひそめる琴のねを、
        知るや君。
「若菜集」に於ける島崎氏の態度は正にこれである。まだ彈きも見ぬ緒琴は深淵の底に沈んでゐる。折々は波の手にうごかされて幽かな響の傳り來ることがある。詩人の耳は敏くもその響を聽きと…

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