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日記
にっき
作品ID45694
著者知里 幸恵
文字遣い新字旧仮名
底本 「銀のしずく 知里幸恵遺稿」 草風館
1996(平成8)年10月1日
入力者田中敬三
校正者川山隆
公開 / 更新2006-09-18 / 2014-09-18
長さの目安約 64 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

大正十一年六月一日


目がさめた時、電燈は消えてゐてあたりは仄薄暗かった。お菊さんが心地よげにすや/\と寝息をたてゝゐた。今日は六月一日、一年十二ヶ月の中第六月目の端緒の日だ。私は思った。此の月は、此の年は、私は一たい何を為すべきであらう……昨日と同じに机にむかってペンを執る、白い紙に青いインクで蚯蚓の這い跡の様な文字をしるす……たゞそれだけ。たゞそれだけの事が何になるのか。私の為、私の同族祖先の為、それから……アコロイタクの研究とそれに連る尊い大事業をなしつゝある先生に少しばかりの参考の資に供す為、学術の為、日本の国の為、世界万国の為、……何といふ大きな仕事なのだらう……私の頭、小さいこの頭、その中にある小さいものをしぼり出して筆にあらはす……たゞそれだけの事が――私は書かねばならぬ、知れる限りを、生の限りを、書かねばならぬ。――輝かしい朝――緑色の朝。朝食の時、中條百合子さんの文章から、術レ芸と実生活、金持の人の文章に謙遜味のない事などを先生がお話しなすった。
芸術と云ふものは絶対高尚な物で、親の為、夫の為、子の為に身を捧げるのは極低い生活だといふのが百合子さんの見解だといふ。「しかし芸術が高尚な尊い物であるのとおなじく、家庭の実生活も絶対に尊い物である事にまだ気がつかないのはまだ百合子さんが若いのだ、かはいさうに……」と先生は、若い彼の女をいぢらしいものの様にしみ/″\と仰る。私ハよそ事ではないと思った。胸がギクリとした。私には芸術って何だかよくはわからないが……。
それから、百合子さんは、あまりに順境に育ったので、人生は戦ひである事を知らずに物見遊山と心得てゐる……といふお話もあったが、わかった様なわからない様な気がした。
喜びも悲しみも苦しみも楽しみも、すべてが神様の私にあたへ給ふ事なのだ。私に相応しくない物を神様は私にあたへ給ふ筈はない。だから私はあたへられる物を素直に喜んでいたゞかなければならない。不平、それは、神を拒否する事ではないか。感謝、感謝!
罪を犯して罰をのがれやうとは虫のいゝ話。仕事を持ち出して奥様やおきくさんとお裁縫をする。奥様は昨夜の寝不足で今日は御気分がすぐれないとの事、夢さへ見ずにグッスリと寝入った私は、何だかしら、済まない様な気分が起った。何卒奥様に安眠があたへられます様に……と祈らずには居られない気になった。
赤ちゃんが今日は大へん御きげんがよい。奥様の為に、先生の為に、赤ちゃん御自身の為に、坊ちゃん、おきくさんの為にも赤ちゃんの健康がほんとうに望ましい事。「弱い女が主婦になるのは罪だ。子供の為、夫の為、自分の為に最大の不幸だ」と奥様が仰る。何たる悲痛の言葉ぞ。私は直ぐに打消してそれに代るよろこびの言葉を見つけようと思ったが不能であった。だって私は常日頃ちょうど奥様とおんなじ心持でゐたのだから……。奥様は最も深刻にその…

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