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諦めている子供たち
あきらめているこどもたち
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾選集 第十巻エッセイ1」 講談社
1982(昭和57)年8月12日
初出「暮らしの手帳」1955(昭和30)年3月
入力者高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正者小林繁雄
公開 / 更新2006-10-19 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 雪の晩げに道を歩くと雪ジョロがでるすけオッカネぞとおらとこのオトトもオカカもオラたちに云うてオッカナがらすろも、オラそんげのこと信用しねわい。そらろもオレもオッキなってガキどもができると、そんげのこと云うてオッカナがらすかも知れねな。人間てがんはショウがねもんだて。そらすけオラいまから諦めてるて。
 雪の夜道を歩くと雪女郎がでるから怖しいぞとオレのウチの父も母もオレたちに云ってこわがらすが、オレはそんなこと信用していない。けれどもオレも大きくなって子供ができると、そんなことを云ってこわがらすかも知れない。人間というものは仕様がないものだ。それだからオレはいまから諦めてるよ。

 小学校四五六年生くらいの子供の言葉と思っていただけばよい。新潟県は土地々々で非常に方言がちがい新発田あたりだけはまるで仙台弁のように鼻にかかる少地域なぞが介在したりするが、いま書いたのは新潟市の方言だ。新潟の子供たちは小にしてすでに甚しく諦観が発達しており、こういう言い方をするのが決して珍しくはないのである。それというのが彼らのオトトやオカカが常にそういう見方や感じ方や言い方をしているからで、要するに先祖代々ずッとそうだということになる。
 ここに方言を書いただけではとうてい皆さんにお分りにならないことが一ツあるが、新潟の方言にはまるで唄うような抑揚があって、是が非でも納得させたいと哀願しているような哀れさと同時に自分自身を小バカにし卑屈にしてもてあそんでいるような諦めとユーモアがある。
 新潟市の盆唄は次の通り。
「盆らてがんね茄子の皮の雑炊ら。あんまテッコモリで鼻の頭をやいたとさ」
 お盆だというのにオレのウチの食い物は茄子の皮の雑炊だとさ。あまり山盛りで鼻のさきを焼いたとさ。というわけだ。自分をわざとわるくいやらしく表現して笑わせてよろこぶ気風である。
 新潟市だけの特例だが、冬になると「湯づけ」というものをたべる。冷飯を湯でさッと煮てタクアンぐらいをオカズにカリカリゾロゾロとすする。まことにどうも哀れ惨たる食べ物で、腹があたたまるからと称するけれども実はそれが雪国の貧しさの象徴とでも申したいようなものだ。何の風味もない。これを越後人は自嘲して「沼垂までくると信濃川の向うから湯づけの音がきこえてくる」という。沼垂は今では新潟市だが昔は新潟市ではなかった。両者信濃川をはさんでいる。察するに沼垂には湯づけの風習がないらしく、沼垂までくると川の向うから湯づけをすする音がきこえるというのだが、そのころ信濃川の河口は七町半もあった。洋々たる大河である。けだしこういう大ゲサな表現はまた新潟の表現で、彼らは生れながらにして大ゲサな表現が巧妙である。彼らは人が自殺した話をするにもユーモラスにしか語らない。しかしそれが少しも不愉快にきこえないのは彼らは本来自分自身を何より悪くいやらしく滑稽にし…

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