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決闘
けっとう
作品ID45763
原題ДУЭЛЬ
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「チェーホフ全集 8」 中央公論社
1960(昭和35)年2月15日
入力者阿部哲也
校正者米田
公開 / 更新2010-08-11 / 2014-09-21
長さの目安約 214 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

ボギモヴォ村、一八九一年



 朝の八時といえば、士官や役人や避暑客連中が蒸暑かった前夜の汗を落しに海にひと浸りして、やがてお茶かコーヒーでも飲みに茶亭へよる時刻である。イ[#挿絵]ン・アンドレーイチ・ラエーフスキイという二十八ほどの、痩せぎすなブロンドの青年が、大蔵省の制帽をかぶり、スリッパをひっかけて一浴びしに来てみると、もう浜には知合いの連中が大分あつまっていた。そのなかに、日ごろから親しい軍医のサモイレンコもいた。
 大きな頭を五分刈りにして、猪首で赭ら顔で、それに大きな鼻、もじゃもじゃした黒い眉毛、胡麻塩の頬髯、ぶくぶく緊りのない肥りよう、軍人独特の太い嗄れ声――こう並べて見ると、このサモイレンコがこの町に来たての人の眼に、どら声の成上り士官といった不快な印象を与えるのは無理もない。だが二三日も附き合って見ると、この顔がひどく善良な可愛い顔に見えてくる、美しくさえ見えてくる。見かけはいかにも不細工で粗野だが、そのじつ彼は穏かな、底の底まで善良で実意のある男であった。町じゅうの誰彼なしに君僕の間柄である。誰彼なしに金を用立てる、療治をしてやる、婚礼の橋渡しをしてやる、喧嘩の仲裁をしてやる、ピクニックの音頭取りになって、羊肉の串焼きをする、とても旨い鯔のスープをこしらえる。年がら年じゅう誰かしらの面倒を見たり奔走してやったりしている。そしてしょっちゅう何かしら嬉しがっている。衆目の指すところ彼は非の打ちどころのない人間で、あるとしても弱点は二つしかない。一つは妙に自分の親切に羞れて、酷薄粗暴の風を装うこと。もう一つは、まだ五等官のくせに、助手や看護卒から一つ上の『閣下』という敬称をもって呼ばれたがること。
「ねえ、アレクサンドル・ダヴィードィチ、君はどう思うかね」と、このサモイレンコと並んで肩のあたりの深さまで来た時、ラエーフスキイが口を切った、「仮りにだよ、好きで一緒になった女があるとする。そこでまあその女と二年あまりも一緒に暮らしたあげくに、よくある図だが厭気がさして、縁もゆかりもない女に見えて来たとする。まあこうした場合に君ならどうするね。」
「至極簡単だね。さあ、どこへなりと出ておいで。――それだけの話だよ。」
「言うは易しさ。だがその女に出て行きどころがなかったらどうする。その女に身寄りも、金も、働く腕もないとしたら……。」
「なあに、そんなら五百ルーブリで綺麗さっぱりと行くか、さもなきゃ月二十五ルーブリの仕送りで行くか、それで文句なしさ。簡単至極だ。」
「よし、じゃその五百ルーブリがあるとする。乃至は月々二十五ルーブリ仕送れるとする。だがその女が教育のある気位の高い女だった場合、君はよもや金を突きつけるような真似はできまい。やるとしても、どういう具合にやるかね。」
 サモイレンコが何か答えようとしたとき、大きな波が二人の頭上にかぶさって…

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