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霓博士の廃頽
にじはかせのはいたい
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 01」 筑摩書房
1999(平成11)年5月20日
初出「作品 第二巻第一〇号」1931(昭和6)年10月1日
入力者tatsuki
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-05-10 / 2016-04-04
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 星のキラキラとした夜更けのことで、大通りの睡り耽つたプラタナの陰には最早すつかり濡れてしまつた街燈が、硝子の箱にタラタラと綺麗な滴を流してゐたが、――シルクハットを阿弥陀に被り僕の腕に縋り乍らフラフラと千鳥足で泳いでゐた霓博士は、突然物凄い顔をして僕を邪慳に突き飛ばした。
「お前はもう帰れ!」
「しかし、だつて、先生はうまく歩けないぢやありませんか――」
「帰らんと、落第させるぞ!」
「それあ、ひどい!」
「こいつ――」
 霓博士はいきなりグヮン! と僕の膝小僧を蹴飛ばした。その途端に、僕よりも博士の方がデングリ返つて逆立ちを打ちシルクハットを甃の上へ叩き落してしまつたが、四つん這ひに手をついて其れを拾ふ瞬間にも股の陰から僕の隙を鋭くヂイッと窺ひ、ヤッ! と帽子を頭へ載せて立ち上る途端に僕の脛をも一度ドカン! と蹴つ飛ばした。「ワア痛い!」「ウー、いい気味ぢやアよ!」と言ひ捨てて、博士は暗闇の奥底へ蹌踉とした影法師を蹣跚かせ乍らだんだん消えて行つてしまつた。そこで僕も息を殺し、プラタナの深い繁みが落してゐる暗闇ばかり縫ふやうにして博士の跡をつけはぢめた……が、博士はものの一町も歩かぬうちに、お屋敷街の静かな通りへ曲つてゆく四つ角の処で急にヒラリと身を隠し、塀の陰からソッと首だけ突き延して疑り深く振り返つたが、忽ち僕を発見して――手当り次第に石を拾ふと僕をめがけて盲滅法に発射した。
「WAWAWAAAH! 実に憎むべき悪魔ぢやアよ……」
 斯様に博士は怒りに燃えた呟きを捨て、闘志満々として握り拳を打ち振り乍ら塀の陰から進み出たが、突然ブルン! と昆虫の羽唸りに似た鈍い音を夜空に残し睡つた街上に白い真空の一文字を引いたかと思ふと、僕の胸倉へ発止とばかりに躍りかかつて――博士は稀に見る小男であつたから、僕の頸に左手を巻き僕の腿に両脚を絡みつけて、丁度木立にしがみついた蝉の恰好になるのだが――右手でギュッと僕の鼻先を撮みあげると渾身の力を奮ひ集めてグリグリぐりぐりと捩ぢ廻したのであつた。ヤッ! 掛声諸共博士は遂ひに僕を道路へ捻り倒し、クシャクシャに僕を踏み潰して、全く其の場へのしちまふと、いい心持にシルクハットを深く阿弥陀に被り直して「エヘヘン!」と反り返つた。
「実に怪しげな奴ぢやアよ! 憎むべき存在ぢやわい、坂口アンゴウといふ奴は! 万端思ひ合はせるところ、かの地底を彷徨ふ蒼白き妖精、小妖精の化身であらうか。はてさて悩ましき化け物ぢやアよ!」
 ポン! と僕のドテッ腹を小気味よく蹴り捨てて、博士はプラタナのあちら側へフラフラと消えて行つた。僕は全く人通りの杜絶えた並木路にブッ倒れて、暫しの間ひやひやした綺麗な星空を眺めてゐたが、どうやら疼痛も引き去り身動きも出来るやうになつたので、頑固に決意を堅め霓博士の邸宅へとプラタナの闇を縫ひ乍らフラついて行つた――…

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