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せみ
作品ID45800
副題――あるミザントロープの話――
――あるミザントロープのはなし――
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 01」 筑摩書房
1999(平成11)年5月20日
初出「文藝春秋 第一〇年第二号」1932(昭和7)年2月1日
入力者tatsuki
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-05-10 / 2016-04-04
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 凡そ世に同じ人間は有り得ないゆえ、平凡な人間でもその種差に観点を置いて眺める時は、往々、自分は異常な人格を具へた麒麟児であると思ひ込んだりするものである。殊に異常を偏重しがちな芸術の領域では、多少の趣味多少の魅力に眩惑されてウカウカと深入りするうちに、遂には性格上の種差を過信して、自分は一個の鬼才であると牢固たる診断を下してしまふことが多い。夢は覚めない方が(勿論――)いい。分別は、いやらしいものである。軈て自分の才能や感覚に判然した見極めがついて何の特異さも認め難い時がくるとこれくらゐ興ざめた、落莫とした人生も類ひ稀なやうである。一つぺんに周囲の気配が青ざめて、舌触りまで砂を噛むやうにザラッぽいものだ。今さら何をする気分もないのでひたすらにボンヤリしてゐると、ただ重く、ただ暗闇が詰まつてゐて、溜息の洩らしやうもないのである。いつもながら、気を失つてしまふやうな心持がしてゐる。ところで、私の場合なぞは、丁度このやうなものであつた。
 私は音楽家を志望して――私は、少年時代から何といふこともなく音楽に興を覚え、[#挿絵]オロンを弾き鳴らすことに多少の嗜みを持つやうになつてゐたが、中学を卒へる頃からピアノにより高いものを感ずるやうになり、そのまま全く反省するところなく或る私立の音楽学校へ入学したわけであるが、指先に熟練を要するピアノには已に晩い年齢であり、当然さらに心を変へて作曲を志望するやうになつた。そして、兎も角学校を卒業して――(もはや二年半)、無為な毎日をただ送るうちに、殆んど辷るやうにして、たわいもなく斯様な憂鬱に潰されてしまつた。全く、興ざめた! 興ざめたといふ感じである。手の施しやうもないのだ。ただ、日毎に身の周囲が白つぽく色あせて、漂白された腥い視野が、日と共に広々と遠く延びて行くやうである。茫漠として――泌みつくやうな、どうも、遣り切れない虚しさである。
 私の場合では、私は別に、私の性格に就てさへ異常さを誇らうとした事もなかつた。一個の、ありきたりの凡人に過ぎないことを充分に知つてゐたのだ。友人達のやうに、私は神経質でさへなかつた。昔は、健康も人に勝れ、旺盛な食慾もあつたし、睡むい時には落ちて行くやうに寝付いたまま、グッスリ半日の余も睡むることが出来たのである。無論敏感ではないが、さりとて並以下に鈍感といふこともなく――さて、今となつては、音の感受性に就てさへ、何等の特異さを認めることも出来ないのだ。日常に於て、私は、音楽のことを語るよりも遊び興ずることが好きであつた。
 私は、今、何をする根気も持つことが出来ないのだ。否応なしに――全く、否応なしに、私は――いはば自我といふ意識が、何かしら中心となるべき勘所が、私の中に見当らないのだ。何もせずにボンヤリ毎日を暮してゐると、食慾だけは衰へもせず、むしろ存分に喰ふこともでき、食べたあとでは幾時…

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