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小さな部屋
ちいさなへや
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 01」 筑摩書房
1999(平成11)年5月20日
初出「文藝春秋 第一一年二号」1933(昭和8)年2月1日
入力者tatsuki
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-06-15 / 2016-04-04
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「扨て一人の男が浜で死んだ。ところで同じ時刻には一人の男が街角を曲つてゐた」――
 といふ、これに似通つた流行唄の文句があるのだが、韮山痴川は、白昼現にあの街角この街角を曲つてゐるに相違ない薄気味の悪い奴を時々考へてみると厭な気がした。自分も街角を曲る奴にならねばならんと思つた。
 韮山痴川は一種のディレッタントであつた。顔も胴体ももくもく脹らんでゐて、一見土左衛門を彷彿させた。近頃は相変らず丸々とむくんだなりに、生臭い疲労の翳がどことなく射しはじめたが、いはば疲れた土左衛門となつたのである。
「私に避け難い知り難い歎きがある。そのために私はお前に溺れてゐるが、お前に由つて救はれるとは思ひもよらぬ。苦痛を苦痛で紛らすやうに私はお前に縋るのだが、それも結局、お前と私の造り出す地獄の騒音によつて、古沼のやうな沈澱の底を探りたい念願に他ならぬ」――
 痴川はいつたい愚痴つぽいたちの男である。性来憂鬱を好み、日頃煩悶を口癖にして惓むことを知らない。前記の言葉はその一例であるが、これは浅間麻油の聞き飽いた(莫迦の)一つ文句であつた。この言葉によれば、痴川はまるで麻油にとつて厳たる支配者の形に見えるのだが、事実は麻油に軽蔑されきつてゐた。麻油は痴川の情人でない。情人でないこともないが、麻油は出鱈目な女詩人で、痴川のほかに、その友人の伊豆ならびに小笠原とも公然関係を結んでゐた。
 痴川に麻油を独専する意欲はなかつた。併し女に軽蔑されることを嫌つた。惚れられてゐたかつたのだ。かういふ所に女に軽蔑された根拠もあつたのだし、それを避けやうとして殊更に泣き言めいて悩み悩みと言ひ慣はした理由もある。地獄の騒音の底で古沼の沈澱を探りたいなぞと勿体ぶつた言ひ草もくだらない独りよがりで、見掛倒しの痴川は始終古沼の底で足掻きのとれない憂鬱を舐めてゐた。探りたい段でなく、探りすぎて悩まされ通してゐた。
 痴川は憂鬱な内攻に堪へ難くなると、病身で鼠のやうに気の弱い伊豆のもとへ驀地に躍り込み、おつ被せるやうにして、「むむ、ああ、もう俺はあのけつたいな女詩人を見るのも厭になつた」痴川は顔を大形に顰めて、いきなり大がかりに胡坐を組み、さも苦しげに吐息を落すのであつた。「お前はあの女と結婚するのが丁度いいぜ。俺が一肌ぬぐが、お前はあの女に惚れ込んでゐるし……」
「俺は惚れてなんかゐないよ」と、伊豆は不興げに病弱な蒼白い顔を伏せた。痴川は急にわなわなと顫へだして頬の贅肉をひきつらせ、ちんちくりんな拳で伊豆の胸倉をこづいて、「お前といふ奴は、まるで、こん畜生め! 友達の心のこれつぱかしも分らねえ奴で……」それから後は唐突な慟哭になる。慣れてはゐるし呆気にとられるわけでもないが、どうすることも出来ないので、伊豆は薄い唇を兎も角微笑めく顫ひに紛らして、ねちねちした愚痴を一々頷くよりほかに仕方もなかつた。
 麻…

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