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姦淫に寄す
かんいんによす
作品ID45820
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 01」 筑摩書房
1999(平成11)年5月20日
初出「行動 第二巻第五号」紀伊国屋出版部、1934(昭和9)年5月1日
入力者tatsuki
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-06-29 / 2016-04-04
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 九段坂下の裏通りに汚い下宿屋があつた。冬の一夜、その二階の一室で一人の勤め人が自殺した。原因は色々あつたらうが、どれといつて取立てて言ふほどの原因もない、いはば自殺に適した生れつきの、生きてゐても仕様のない湿つぽい男の一人であつたらしい。第一、書置もなかつたのである。そんなあつさりした死に方が却つて人々を吃驚させたらしいが、その隣室に住んでゐて、死んだ隣人の顔さへ見知らずに暮してゐたといふ図抜けた非社交性と強度の近視眼をもつた一人の大学生だけが、隣室のこんな大事に見世物ほどの好奇心さへ起すことなく寝ころんでゐた。のみならず、こんな出来事があつては当分あの部屋も借手がつかないだらうと宿の者がこぼすのをきいて、大学生はお伽話に合槌を打つやうな静かな声で、そんなら俺が移らうかなと呟いた。別に義侠心を燃したらしい素振りではなく鼻唄のやうな物足りない様子だつたので気にとめる者もなかつたが、自分の部屋へ戻つてくると、この男はほんとにノコ/\隣室へ移つてしまつた。どうといふ確りした理由があつたとは思はれない。全ての挙動が原因不明で物足りない風に見えるくせに、引越してしまふと百年も前から其処に居ついてゐたやうに、至極自然で物静かで落付いてゐた。あの男も自殺臭いと言ふ者もあつたが、彼の顔付を見たことのある人々は思はず噴きだしたりしながら、そんな突きつめた素振りは微塵もない彼の勿体ぶつた顔を思ひ出して、あいつはつまり変り者といふ奴で、考へる頭はいいにしろ生きる頭は悪い種類の、丁度動物園の河馬を考へ深くしたやうな割合と無難な愚か者の一人だらうと噂した。そこで宿の亭主が考へたことには、これはてつきり下宿料を値切る魂胆に相違ないと勘のいいところを人々に洩らしてゐたが、実に呆れ果てたことには(そして宿の亭主が悦んだことには――)月末がくると催促もしないうちに定まつた下宿料を届けてよこした。もと/\この男は金払ひの几帳面な男であつた。そのうへ部屋なども常に清潔で整然としてゐた。ただ彼はめつたに外出することがなかつた。稀に机に向つてゐることもあつたが、大概は整然と寝床をしいて矢張り整然と昼寝をむさぼつてゐたといふのである。恐らくほんとの話であらう。彼は同宿人のどの一人にも挨拶することがなかつたし物を言ふこともなかつたが、そのくせ物腰は無愛想でもなかつた。なぜならば此の男は人の顔を見るときには、どうしても此れは笑ひだと判断しなければならない種類の、そして決して其れ以上の何物でもない種類の、たしかに一種の笑ひを機械的に顔に刻む習性を持つてゐたらしい。それは喪中の人に向つても例外はなかつたし、怒つた人に向ふ時でも例外はないやうに見えた。いはば全く張合ひがなかつたのである。こんな男を相手にするのはまるで雲を掴むやうなもので、あいつは馬鹿だと決めなければ、こつちが馬鹿を見るばかりだと人々は考へた。…

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