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蒼茫夢
そうぼうむ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 01」 筑摩書房
1999(平成11)年5月20日
初出「作品 第六巻第四号」1935(昭和10)年4月1日
入力者tatsuki
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-06-11 / 2016-04-04
長さの目安約 41 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 冬の明方のことだつた。夜はまだ明けない。然し夜明けが近づかうとしてゐるのだ。夜の不気味な妖しさが衰へて、巨大な虚しい悲しさが闇の全てに漲りはじめてゐる。草吉はそのとき自然に目を覚した。
 室内も窓の彼方も一色の深い暗闇ではあつたが、重量の加はりはじめた寒気と、胸苦しい悲しみの気配によつて、もはや夜明けに近いことを推定することができた。四時半前後であらうと思つた。
 草吉の日毎の目覚めは衰亡の中へ滑りこむやうに展らかれてくるので、殆んど愉しいものではなかつた。それに目覚めた数分のあひだ、奇妙に不吉なことばかり頭に浮んでくるのであつた。ひとつには理性の失はれた時間のせゐであつたらうか。たとへば肉体を腐せてゆく悪疾の気色の悪い映像であつた。病魔は肉体を黒色にむしくひ、汚水のたまつた脳漿の中を蛆虫のやうに蠢めきまはつてゆくのである。目覚めにそれを瞶めてゐる数分のあひだ、然し草吉の心に湧き起るものは不快でもなければ恐怖でもなかつた。全てがひとえに静寂であつた。それを包む全ての心が無のやうであつた。生あるものは不吉な映像それのみであり、それは遥かな虚無の中に生れ出で、虚無を観客にちらめきうつり、さうして冬空の星の如くにそれ自らも凍りついてゐるのであつた。全てが凍るといふ冷静な感じであり、草吉の苦痛も悲しみも、在るといへばそれは確かに凍りついて在るのであつた。
 その悪疾は、今は草吉の妻であり、以前は港の売春婦であつた忍が彼にうつしたものであつた。夫にうつした悪疾のことを思ひだすとき、世間なみの感情を忘れた冷涙の女が、顔をうつむけて涙を流す。
 とりわけ不快とよぶほどの映像ではなかつたのだが、然し草吉はそれらのものを考へまいとして、目覚めた瞬間の心の中で美くしい風景を思ひださうとすることもあつた。ひろい海原もみえるのだつた。はるかな山岳も映るのだ。雲も、曠野も、異国の街も、押しつけがましく入れ換り立ち換りに現れてくるが、悲しさを脱ぎすてたやうな気持にはならない。
 その未明おのづと草吉が目を覚して暫くの時がすぎたとき、ほのかな一ときれの白が空の奥手に浮かびでたやうな気配がした。気配はしたがそれは草吉の気のせゐであつた。実際は明るくなつてゐなかつた。然し夜明けが近づいたと彼は改めて明確に意識したのだ。さうして起きて机に向はうと考へた。そこで起きる動作にとりかからうとする身構えの途中で、彼の意識は始めて藪小路当太郎の存在にひつかかつたのであつた。当太郎はゆふべから草吉の家へ遊びにきて、彼の隣席にねむつてゐる筈であつた。
 客のねむりを妨げはしないかといふ思ひつきから、草吉は立ち上る姿勢の途中で電燈をつけることに躊躇を覚え、そこで暫く身動きを失つた。ところが立ち上つてしまつたときには、投げやりなくらゐアッサリと電燈をつけてしまつてゐた。なるほど、当太郎を思ひだすことが遅…

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