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文章の一形式
ぶんしょうのいちけいしき
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 01」 筑摩書房
1999(平成11)年5月20日
初出「作品 第六巻第九号」1935(昭和10)年9月1日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2009-06-11 / 2016-04-04
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私は文章を書いてゐて、断定的な言ひ方をするのが甚だ気がかりの場合が多い。心理の説明なぞの場合が殊に然うで、断定的に言ひきつてしまふと、忽ち真実を掴み損ねたやうな疑ひに落ちこんでしまふ。そこで私は、彼はかう考へた、と書くかはりに、かう考へたやうであつた、とか、かう考へたらしいと言ふ風に書くのである。つまり読者と協力して、共々言外のところに新らたな意味を感じ当てたいといふ考へであるが、これは未熟を弥縫する卑怯な手段のやうにも見えるが、私としては自分の文学に課せられた避くべからざる問題をそこに見出さずにゐられない気持である。
 芥川龍之介の自殺の原因に十ほど心当りがあるといふ話を宇野浩二氏からおききしたことがあつたが、当然ありさうなことで、また文学者のやうな複雑な精神生活を持たない人々でも、これ一つといふ剰余なしのハッキリした理由だけで自殺することの方が却つて稀なことではないだらうか。
 自殺なぞといふ特異な場合を持ちだすまでもなく、日常我々が怒るとか喜ぶとか悲しむといふ平凡な場合に就て考へてみても、単に怒つた、悲しんだ、喜んだ、と書いただけでは片付けきれない複雑な奥行きと広がりがあるやうである。それにも拘らず多くの文学が極めて軽く単に、喜んだ、悲しんだ、叫んだ、と書いただけで済ましてきたのは、その複雑さに気付かなかつたわけではなく、その複雑さは分つてゐても、それに一々拘泥はるほどの重大さを認めなかつたからと見るのが至当であらう。実際のところ、特殊な場合を除いて、これらの一々に拘泥しては大文章が書けないに極つてゐる。
 私は文章の「真実らしさ」といふことに就て、内容の問題も無論あるが、形の上の真実らしさが確立すれば、むしろ内容はそれに応じて配分さるべきものであり、それに応じて組織さるべきものでもあり、かうして形式と結びついて配分されたところから、全然新らたな意味とか、いはば内容の真実らしさも生れてくるのではないかと考へてゐる。如上の私の言ふ形式といふことが、文章上の遊戯とは思へないのである。
 これを先づ小さなところから言へば、先程も述べたやうな、断定的な言ひ方が気になつて仕方がないといふことであるが、これは必ずしも私の神経が断定を下すにも堪えがたいほど病的な衰弱をきたしてゐるから、とばかりは言へないやうである。
 意識内容の歪み、襞、からみ、さういふものは断定の数をどれほど重ねても言ひきれないやうに思はれる。又、私の目指す文学は、それを言ひきることが直接の目的でもないのである。小説の部分々々の文章は、それ自らが停止点、飽和点であるべきでなく、接続点であり、常に止揚の一過程であり、小説の最後に至るまで燃焼をつづけてゐなければならないと思ふ。燃焼しうるものは寧ろ方便的なものであつて、真に言ひたいところのものは不燃性の「あるもの」である。斯様なものは我々の知能が意味…

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