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作家論について
さっかろんについて
作品ID45859
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 03」 筑摩書房
1999(平成11)年3月20日
初出「現代文学 第四巻第四号」大観堂、1941(昭和16)年5月28日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-10-17 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 僕の小説によらず、感想によらず、自分を表現する以外に、又、自分の思ふことを人に通じようとする以外に、余念はない。
 いはゞ、僕自身の露呈に外ならぬ次第で、さうまで自分を表現したければ、「坂口安吾論」を自分で書けばいゝやうなものではあるが、未だにさういふものを書かないのは、書く必要、書く意味を認めてゐないからである。
 僕は、自分や、自分の思想を表現するのに最も好都合の形式が小説であるために、小説を書く。若し評論が好都合なら評論の形によるであらうし、自伝が好都合ならば自伝に、坂口安吾論が好都合ならば、坂口安吾論によるつもりである。
 僕は時々自伝ならば書きたいと思ひ、やがて(もう二三十年も生きてゐたら)或ひは書くかも知れないといふ予想を持つことがないでもない。
 けれども、自伝以上に、他人の伝記を書きたいといふ気持があり、無論それは小説としての意味で、全然架空の人物の伝記かも知れないけれども、さういふ伝記なら、現に今も、時にやりかけてゐる。
 自分を表現するために、なぜ他人の一生をかりるか、文学の謎のひとつが、ここにも在ると思ふ。
 万里の長城も尚文学を防ぎ得ないほどその魔力は万能と云はれながら、然し、人は文字をあやつるのに決して万能自在ではない。数千年の道徳が我々の性に近くなつて多くの文字を歪める働きもしてゐるし、元来、人間の複雑極まる表裏はその一を言ふために、必ずや他の一を覆ひ隠す不法を犯させがちである。
 特に、自分を表すに就て、もし我々が自分を意識したならば、もはやその限定から脱けだすことができないだらう。もし我々が、小説を書くに当つて、自分を意識したならば、自分はすでに、唯それだけのものでしかない。
 けれども、凡そ人間は、常に自分自身をすら創作しうるほど無限定不可決な存在である。我々が現に自分自身に就て懐いてゐる認識のひとつが、いつ、その逆のものにならないとも限らない。我々は、熟知してゐることを正確に表現されたものを読む場合にも成程と思ひはするが、全然思ひもよらぬ真実を見せられた場合には、驚愕と共に目を打たれるではないか。そのとき、我々は、自分をひとつ、見つけたのである。
 我々は小説を書く前に自分を意識し限定すべきではなく、小説を書き終つて後に、自分を発見すべきである。
 これに就ては、然し、作家が小説を書くに当つて、作家の意識せざるものを書きうる筈がないといふ反対があるかも知れぬ。創作とか創造とか、如何ほど言つてみても、それは読者に対してのことで、作家自身はその意識を通らない何事をも書きうる筈がない。さういふ反駁である。
 然しながら、我々の意識が、すでに決して万能ではないことを、忘れてはならない。我々の意識には、その各々の角度と通路とがあつて、一度、意識を設定するや、他の角度と通路にある意識を見失はなければならない。従而、我々は、対象を限定…

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