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島原の乱雑記
しまばらのらんざっき
作品ID45863
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 03」 筑摩書房
1999(平成11)年3月20日
初出「現代文学 第四巻第八号」大観堂、1941(昭和16)年9月25日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-11-06 / 2014-09-21
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

   一 三万七千人

 島原の乱で三万七千の農民が死んだ。三万四千は戦死し、生き残つた三千名の女と子供が、落城の翌日から三日間にわたつて斬首された。みんな喜んで死んだ。喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平伊豆守の息子、甲斐守輝綱(当時十八歳)の日記に、さう書いてあるのである。「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と。
 三千人の女子供がひそんでゐたといふ空濠は、今も尚、当時のまゝ残つてゐる。丁度、原城趾の中央あたり、本丸と二の丸のあひだ、百五十坪ぐらゐの穴で、深さは二丈余。今、空濠の底いちめん、麦がみのつてゐた。又、本丸や二の丸には、ぢやが芋と麦が。
 原城趾は、往昔の原形を殆どくづしてゐない。有明の海を背に、海に吃立した百尺の丘、前面右方に温泉岳を望んでゐる。三万七千人戦死の時、このあたりの数里四方は住民が全滅した。布津、堂崎、有馬、有家、口之津、加津佐、串山の諸村は全滅。深江、安徳、小浜、中木場、三会等々は村民の半数が一揆に加担して死んだ。だから、落城後、三万七千の屍体をとりかたづける人足もなく、まして、あとを耕す一人の村民の姿もなかつた。白骨の隙間に雑草が繁り、なまぐさい風に頭をふり、島原半島は無人のまゝ、十年すぎた。十年目に骨を集め、九州諸国の僧をよびよせ、数夜にわたつて懇に供養し、他国から農民を移住せしめた。だから、今の村民は、まつたく切支丹に縁がない。移住者達は三万七千の霊を怖れ、その原形をくづすことを慎んだのかも知れぬ。原形のまゝ、畑になつてゐるのである。
 私は城趾の入口を探して道にまよひ、昔は天草丸といつた砦の下にあたる浜辺の松林で、漁夫らしい人に道をきいた。返事をしてくれなかつた。重ねてきいたら、突然ぢやけんに、歩きだして行つてしまつた。子供達をつかまへてきいたが、これも逃げて行つてしまつた。すると、十四五間も離れた屋根の下から、思ひもよらぬ女の人が走りでゝ来て、ていねいに教へてくれた。宿屋で、何か切支丹のことを聞きださうとしたが、主婦は、私の言葉が理解できないらしく、やゝあつてのち、このあたりではキリスト教を憎んでゐます、と言つた。

   二 原因

 島原の乱の原因は、俗説では切支丹の反乱と言はれてきたが、今日、一般の定説では、領主の苛斂誅求による農民一揆と言はれてゐる。天草四郎が松平伊豆守に当てた陣中の矢文にも、領主松倉長門守の重税を訴へ「近代、長門守殿内検地詰存外の上、剰へ高免の仰付けられ、四五年の間、牛馬書子令文状、他を恨み身を恨み、落涙袖を漫し、納所仕ると雖も、早勘定切果て――」と書いてゐる。
 然し、重税の内容がどのやうなものであつたか、この文章からは分らない。牛馬書子令文状といふものがどのやうなものであるか、それすらも分らないのだ。又、日本に残る記録には、之に就て語るものが、まつたくない。…

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