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湖水と彼等
こすいとかれら
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第一巻(小説Ⅰ)」 未来社
1967(昭和42)年6月20日
初出「新思潮」1914(大正3)年2月
入力者tatsuki
校正者松永正敏
公開 / 更新2008-10-14 / 2014-09-21
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 もう長い間の旅である――と、またもふと彼女は思う、四十年の過去をふり返って見ると茫として眼がかすむ。
 顔を上げれば、向うまで深く湛えた湖水の面と青く研ぎ澄された空との間に、大きい銀杏の木が淋しく頼り無い郷愁を誘っている。知らない間に一日一日と黄色い葉が散ってゆく、そして今では最早なかば裸の姿も見せている。霜に痛んだ葉の数が次第に少くなることは、やがてこの湖畔の茶店を訪れる旅の客が少くなることであった。
 冷かな秋の日の午後、とりとめもなく彼女が斯ういう思いに耽っている時、一人の青年が来て水際に出した腰掛の上に休んだ。
 茶と菓子とを運んだ婢に昼食のあと片付けを云いつけて、彼女はまた漠然たる思いの影を追った。遠くより来る哀悠が湖水の面にひたひたと漣を立てている。で側の小さい聖書をとり上げてみた。見るともなしにちらと眼をやると、青年はじっと湖水の面を見つめている。
――われ爾が冷かにもあらず熱くもあらざることを爾の行為に由りて知れり我なんじが冷かなるか或は熱からんことを願う
 こんな句が彼女の心に留った。一筋の雲影もない澄んだ空は、黄色を帯びた光線を深く一杯に含んでいた。其処から何物か震えつつ胸に伝わるものがあった。それは明瞭と知ることが出来なかった。心持ち首を傾げて、彼女はまた書物の上に眼を落した。
――視よ我戸の外に立ちて叩くもしわが声を聞きて戸を開く者あらば我その人の所に就らん而して我はその人と偕にその人は我と偕に食せん
 その時ふっと物影が彼女の顔を横った。かの青年がやって来てじっと彼女を見ているのであった。軽く咎むるような心地の眼付でその顔を見返すと青年はこう云った。
「絵葉書はありませんか。」
 その時彼女は明かに青年の顔を見た。窶れた顔は淋しい輪郭をしていた。逼った額は一層彼の顔を淋しく見せた。堅く結んだ口元とうっとりとした悲しみの眼とは、一つ思いに満ちた心を示していた。で労わるような調子でこう答えた。
「みんな湖水のばかりなのですよ。」
 青年はその一枚を取りあげて暫くじっと見ていた。それはふっくらとした湖水の面を単調に写し出したものであった。それから彼は五六枚を選んで、そのまま黙って湯の宿の方へ帰って行った。
 何だか淋しい影を引いている人だと彼女は思った。

 曇り勝ちで佗びしい一週間が過ぎた。
 前日よりしとしとと降り続いた雨は午後になっても止まなかった。雨を含んで重たい雲の脚が山々の頂を匐ってゆく。そして榛の林に、湖水の上に、冷たい小さい雨の粒が忍び歎く音を立てている。その顫音が集って、仄暗い家の中の空気に頼り無い寂寥を満す時、彼女はむやみと火鉢の炭を足して、軽く頬が熱るまでに火を熾した。障子の腰にはまった四角い板硝子を透して見ると、外にはしっとりした靄が細い雨に縫われて低く垂れている。その靄の圧力を受けて湖水の面は一杯に張り切ってい…

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