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市川九女八
いちかわくめはち
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「新編 近代美人伝 (下)」 岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日
初出「東京朝日新聞」1937(昭和12)年6月23~29日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2007-05-25 / 2014-09-21
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

       一

 若い女が、キャッと声を立てて、バタバタと、草履を蹴とばして、楽屋の入口の間へ駈けこんだが、身を縮めて壁にくっついていると、
「どうしたんだ、見っともねえ。」
 部屋のあるじは苦々しげにいった。渋い、透った声だ。
 奈落の暗闇で、男に抱きつかれたといったら、も一度此処でも、肝を冷されるほど叱られるにきまっているから、弟子娘は乳房を抱えて、息を殺している。
「しようがねえ奴らだな。じてえ、お前たちが、ばかな真似をされるように、呆やりしてるからだ。」
 舞台と平時との区別もなく白く塗りたてて、芸に色気が出ないで、ただの時は、いやに色っぽい、女役者の悪いところだけ真似るのを嫌がっている九女八は、銀のべの煙管をおいて、鏡台へむかったが、小むずかしい顔をしている渋面が鏡に写ったので、ふと、口をつぐんだ。
 七十になる彼女は、中幕の所作事「浅妻船」の若い女に扮そうとしているところだった。
「お師匠さん、ごめんなすって下さい。華紅さんが、他のお弟子さんと間違えられたのですよ。」
「静ちゃん、その娘に、ばかな目に逢わないように、言いきかせておくれよ。」
 九女八は、襟白粉の刷毛を、手伝いに来てくれた、鏡のなかにうつる静枝にいった。根岸の家にも一緒にいる内弟子の静枝は、他のものとちがって並々の器量でないことを知っているので、
「静ちゃん、あすこの引抜きを、今日は巧くやっておくれ。引きぬきなんざ、一度覚えればコツはおんなじだ。自分が演るときもそうだよ。」
 静枝は――後に藤蔭流の家元となるだけに、身にしみて年をとった師匠の舞台の世話を見ている。
 名人と呼ばれ、女団十郎と呼ばれ、九代目市川団十郎の、たった一人の女弟子で、九女八という名をもらっている師匠が、歌舞伎座のような大舞台を踏まずに、この立派な芸を、小芝居や、素人まじりの改良文士劇や、女役者の一座の中で衰えさせてしまうのかと、その人の芸が惜くって、静枝は思わず涙ぐんだ。
 鏡へうつる眼のなかのうるみを、見られまいとしてうつむくとたんに、九女八づきの狂言方、藤台助が入口の暖簾を頭でわけてぬっと室へはいって来た。
「どうしたんだ、叱られでもしたのか。」
 そういうのへ、九女八は審しそうに顔を向けた。静枝へいっているのではないと思ったからだった。
「ははァ、からかったのはお前さんか。」
 九女八は、若い女へ調戯たがる台助のくせを知っているので、口へは出さないが、腹の中でそう思っている。
「師匠、この次興行、浅草へ出てくれないかというのだが――」
 静枝は、台助の顔を、睨むつもりではなかったが、そう見えるほど厳しく下から見上げた。今もいま、師匠のかけがえのない好い芸を、心の中で惜んでいたのに、このお爺さんは見世ものの中へ出すのか――と思ったからだ。
「なんだ。二人とも、妙な面あするんだな。」
 座頭へむかって、…

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