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一世お鯉
いっせいおこい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「新編 近代美人伝 (上)」 岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年11月18日
初出「婦人画報」1921(大正10)年1~3月
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2007-05-19 / 2014-09-21
長さの目安約 47 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

       一

「そりゃお妾のすることじゃないや、みんな本妻のすることだ。姉さんのしたことは本妻のすることなのだ」
 六代目菊五郎のその銹た声が室の外まで聞える。
 真夏の夕暮、室々のへだての襖は取りはらわれて、それぞれのところに御簾や几帳めいた軽羅が垂らしてあるばかりで、日常の居間まで、広々と押開かれてあった。
 打水をした庭の縁を二人三人の足音がして、白地の筒袖の浴衣を着た菊五郎が書生流に歩いて来ると、そのあとに楚々とした夏姿の二人。あっさりと水色の手柄――そうした感じの、細っそりとした女は細君の屋寿子で、その後は、切髪の、黄昏の色にまがう軽羅を着て佇んだ、白粉気のない寂しげな女。
「ほんとに姉さんつまらないや、そんなことをしたって」
 主人はそういって、今までのつづきであったらしい会話のきりをつけた。
 切髪の女は、なよやかに、しかも悩ましいほほえみを洩した。すなおな、黒々とした髪を、なだらかな、なまめかしい風もなく髻を堅く結んで切下げにしていた。年頃は三十を半ばほどとは考えさせるが、つくろわねど、この美貌ゆえ若くも見えるのかも知れない。といって、その実は老させて見せているかも知れない。ほんのりと、庭の燈籠と、室内にもわざと遠くにばかり灯させたのが、憎い風情であった。
「お鯉さんです」
 そうであろうとは思っていたが――
 切髪の女は小さい白扇をしずかに畳んで胸に差した――地味な色合――帯も水色をふくんだ鼠色で、しょいあげの色彩も目立たない。白い扇の、帯にかくれたさきだけが、左の乳首の下あたりに秋の蝶のとまったようにぴったりと……
 黒い夜空ににおいそめた明星のように、チラリチラリと、眼をあげるたびに、星のような瞳が輝き、懐しいまたたきを見せる。唇と、眼とに、無限の愛敬を湛えて、黒いろ絽の、無地の夏コートを着て、ゆかしい印象を残してその女は去った。

「ほんとにあの女は、良い人間すぎてね」
 それは誰れやらの老女の歎息であった。

 一世お鯉――それは桂さんのお鯉さんと呼ばれた。二世お鯉――それも姐さんの果報に負けず西園寺さんのお鯉さんと呼ばれた。照近江のお鯉という名は、時の宰相の寵姫となる芽出度き、出世登竜門の護符のようにあがめられた。登り鯉とか、出世の滝登りとか、勢いのいいためしに引く名ではあるが、二代揃っての晴れ業は、新橋に名妓は多くとも、かつてなき目覚しいこととされた。
 照近江のお鯉――あの、華やかに、明るく、物思いもなげな美しかった女が、あの切髪姿の、しおらしい女人かと思いめぐらすときに、あまりに違った有様に、もしや違った人の頁を繰って見たのではないかという審しみさえも添った。
 わたしの心に記憶する頁――それには絵もある。またおぼえ書きもある。みんな岡目から見たもの聞いたものにすぎないが、わたしはその人自身から聞くよりさきに、その覚え…

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