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朱絃舎浜子
しゅげんしゃはまこ
作品ID45981
著者長谷川 時雨
文字遣い新字新仮名
底本 「新編 近代美人伝 (下)」 岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日
初出「婦人公論」1938(昭和13)年5~7月
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2007-11-25 / 2014-09-21
長さの目安約 53 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 木橋の相生橋に潮がさしてくると、座敷ごと浮きあがって見えて、この家だけが、新佃島全体ででもあるような感じに、庭の芝草までが青んで生々してくる、大川口の水ぎわに近い家の初夏だった。
「ここが好いぞ、いや、敷ものはいらん、いらん。」
 広い室内の隅の方へ、背後に三角の空を残して、ドカリと、傍床の前に安坐を組んだのは、箏の、京極流を創造した鈴木鼓村だった。
「此処は反響が好い、素晴しく好いね。」
 も一度立って、廻り椽の障子も、次の間への襖も、丸窓の障子もみんな明けて来た。
「ええね、ええね、なんか嬉しい気がするぞ、今日は良う弾けるかも知れんなあ。あれ、あんなに潮が高くなった。わしゃ、厳島に行ってること思出しています。ホ!」
 また大きな体を、椽のさきまで運んでいった。
「ほう、ほう、見る間に、中洲の葭がかくれた。あれ、庭の池で小禽か鳴いているわい。」
「翡翠でしょう。」
 わたしは早く「橘媛」が聴きたかった。
「まあ、すぐじゃ、すぐじゃ。」
 鼓村氏は閉口した時にする、頭の尖の方より、頸の方が太いのを縮めて、それが、わざと押込みでもするかのように、広い額に手をあてながら座についた。外で演奏する時には、ゆったりした王朝式の服装と、被りものであるが、今日のように平服のときは、便々たる太鼓腹の下の方に、裾の広がらない無地の木綿のような袴をつけている。
 寛々と組んだ安坐の上に、私たちの稽古琴を乗せて、ばらんと十三本の絃を解いた。
「山の手におると、乾くような気がすると、八千代さんはいうているなあ。此家へくると、ジュウっと、水が滲みわたるようじゃというてたが、わしもそう思います。」
「岡田八千代さんは、水がすきで、御飯へもかけて食べますもの、夏は氷で冷たくしたのを。」
「や、そか?」
 鼓村師の、大きな体と、ひろびろした頬をもつ顔に似合わない、小いさな眼が、箏の上に顔ごとつきだされた。
「水は好いもんじゃなあ、麹町の家の崖に、山吹が良う咲いているが、下に水があると好えのじゃが――」
 椽に栗山桶がおいてあって、御簾のかかっている家の話に移っていった。
 そういううちにも大きな掌は、むずと、十三本の絃をいちどきに握って、ギュンと音をさせて締めあげた。
 それから一絃ずつ、右の片手の、親指と人差指に唾をつけては絃をくぐらせて、しっかり止める始末をしてゆくのだった。その扱いかたの見事さに、うっかり見とれていると、
「あの、何じゃね、話が先刻飛んでしまったのじゃけど、妙な、不思議な女子で――」
と、指を湿らせる合間に、水をほめる前に、先刻話しかけたつづきを、思出したようにいうのだった。
「わしも、いろんな弟子をもったが、その女子ほどの名手は、実際会ったことがないほどで、それが、こっちから訊かなければ何も知らんふりをしているが、なんでも弾けるのでなあ、忘れて…

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