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田沢稲船
たざわいなぶね
作品ID45983
著者長谷川 時雨
文字遣い新字新仮名
底本 「新編 近代美人伝 (下)」 岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日
初出「東京朝日新聞」1937(昭和12)年3月27日~4月21日
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2007-11-16 / 2014-09-21
長さの目安約 53 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 赤と黄と、緑青が、白を溶いた絵の具皿のなかで、流れあって、虹のように見えたり、彩雲のように混じたりするのを、
「あら、これ――」
 絵の具皿を持っていた娘は呼んだ。
「山田美妙斎の『蝴蝶』のようだわ。」
 乙姫さんの竜の都からくる春の潮の、海洋の霞が娘の目に来た。
 山田美妙斎は、尾崎紅葉、川上眉山たちと共に、硯友社を創立したところの眉毛美しいといわれた文人で、言文一致でものを書きはじめ『国民の友』へ掲載した「蝴蝶」は、いろいろの意味で評判が高かったのだ。
 源平屋島の戦いに、御座船をはじめ、兵船もその他も海に沈みはてたとき、やんごとなき御女性に仕えていた蝴蝶という若い女も、一たん海の底に沈んだが、思いがけず、なぎさに打上げられた。それは春の日のことで、霞める浦輪には、寄せる白波のざわざわという音ばかり、磯の小貝は花のように光っている閑かさだった。見る人もなしと、思いがけなく生を得た蝴蝶は、全裸になった――そのあたりを思いだしたのだ。
「あたし、小説を書こう。」
 十七の娘、田沢錦子は、薬指ににじむ、五彩の色をじっと見ながら、自分にいった。

 空はまっ青で、流れる水はふくらんでいる――
 何処にか、雪消の匂いを残しながら、梅も、桜も、桃も、山吹さえも咲き出して、蛙の声もきこえてくれば、一足外へ出れば、野では雉子もケンケンと叫び、雲雀はせわしなくかけ廻っているという、錦子が溶きかけている絵具皿のとけあった色のような春が、五月まぢかい北の国の、蝶の舞い出る日だった。
 むかしの、出羽の郡司の娘、小町の容色をひく錦子も、真っ白な肌をもっている、しかも、十七の春であれば、薄もも色ににおってくる血の色のうつくしさに、自分でも見とれることもあるのだった。その生々しさが湧きあがったとき、この娘は、
 ――なんて拙いんだろう。
と、自分の描く絵が模写にすぎないのを、腹立たしくなっていた。
 ――この色は出やあしない。こんな、綺麗な色は、ちっとも出やあしないじゃないか、残念だが――
 彼女は、自分の腕に喰いつくこともあった。と、そこにパッとにじみだして開いてくる命の花のはなやぎを、どんなふうに色に出したら写せるかと、瞶めながら匕をなげた。
 匕を投げたといえば、錦子はお医者さまの娘だ。徳川時代には、お匕といえば、御殿医であることがわかり、医者が匕を投げたといえば病人が助からぬということであるし、匕を持つといえば内科医のことだった。これは漢法医が多く、漢薬は、きざんであったのを、盛りあわせて煎じるから、医者は薬箱をもたせ、薬箱には、柄の永い、細長い平たい匕――連翹の花片の小がたのかたちのをもっていたものだ。
 錦子の家は出羽の西田川郡であったが、庄内米、酒田港と、物資の豊かな、鶴岡の市はずれではあり、明治廿年代で西洋医学をとり入れた医院だったから、文化の…

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