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黄泉から
よみから
作品ID46077
著者久生 十蘭
文字遣い新字新仮名
底本 「久生十蘭全集 Ⅱ」 三一書房
1970(昭和45)年1月31日
入力者tatsuki
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-09-23 / 2014-09-21
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「九時二十分……」
 新橋のホームで、魚返光太郎が腕時計を見ながらつぶやいた。
 きょうはいそがしい日だった。十時にセザンヌの「静物」を見にくる客が二組。十一時には……夫人が名匠ルシアン・グレエヴの首飾のコレクトを持ってくることになっている。午後二時には……家の家具の売立。四時には……。詩も音楽もわかり、美術雑誌から美術批評の寄稿を依頼されたりする光太郎のような一流の仲買人にとっては、戦争が勝てば勝ったように、負ければまた負けたように、商談と商機にことを欠くことはない。
 こんどの欧州最後の引揚げには光太郎はうまくやった。みな危険な金剛石を買い漁って、益もない物換えにうき身をやつしているとき、光太郎はモネ、ルノアール、ルッソオ、フラゴナール、三つのフェルメールの作品を含むすばらしいコレクションを糶りおとし、持っていた金を安全に始末してしまった。
 仲介業者の先見と機才は、倦怠と夢想から湧きでる詩人の霊感によく似ていて、この仕事に憑かれると抜け目なく立ち廻ることだけが人生の味になり、それ以外のことはすべて色の褪せた花としか見えなくなる。
 光太郎がホームに立ってきょうの仕事の味利きをしていると、鸚鵡の冠毛のように白髪をそそけさせた六十歳ばかりの西洋人が、西口の階段からせかせかとあがってきた。
「おや、ルダンさんだ」
 上衣はいつもの古ぼけたスモオキングだが、きょうは折目のついた縞のズボンをはき、パラフィン紙で包んだ、大きな花束を抱えている。ジュウル・ロマンの喜劇、「恋に狂う翰林院博士トルアデック氏、花束を抱えて右手から登場」といったぐあいである。
 メタクサ伯爵夫人が早稲田大学の仏文科の講師をしていたのは二十年も前だが、ルダンさんはそれよりもまた十年も早いのだから、もう三十年ちかく日本に住んでいるつつましい老雅儒で、光太郎が記憶するかぎりでは、こんなようすはまだいちども見たことがなかった。
 ルダンさんの家庭塾には光太郎ばかりではなく、光太郎のただひとりの肉親である従妹のおけいもお世話になっていて、ルダンさんの指導で大学入学資格試験の準備をすすめ、この戦争がなければソルボンヌへ送りこんでもらっていたところだった。
 ルダンさんは弟子たちをじぶんの息子のように待遇する。弟子のためなら智慧でも葡萄酒でも惜しげもなくだしつくしてしまう。どうやら資格も出来、いよいよフランスへ出発ときまると、貧乏なルダンさんが、アルムーズとか、シャトオ・イクェムとか、巴里の「マキシム」でもなかなかお目にかかれないような、ボルドオやブルゴーニュの最上古酒を抜いて門出を祝ってくれる。
 光太郎もこうして送りだされた一人で、フランスで美術史の研究をするはずだったのが、新進のアジャン・ア・トゥフェ(万能仲買人)になって八年ぶりで日本へ帰ってきた。
 ルダンさんの家は光太郎の家からものの千…

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