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顎十郎捕物帳
あごじゅうろうとりものちょう
副題08 氷献上
08 こおりけんじょう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「久生十蘭全集 Ⅳ」 三一書房
1970(昭和45)年3月31日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2008-01-07 / 2014-09-21
長さの目安約 37 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

   賜氷の節

「これ、押すな、押すな。……押すな、と申すに」
「どうか、お氷を……」
「あなただけが貰いたいのじゃない、みな、こうして待っている」
「……ほんの、ひとかけでも……」
「いま、順にくださる、お待ちなさい……」
「じつは……」
「おい、お武家さん、おれたちは、こうして炎天に照らされながら二刻も前から待っているんです。……つい、いま来て、先にせしめようというなあ、すこしばかり虫がいいでしょう」
「……まことに、申訳けないが、じつは……」
 本郷、向ガ岡。
 加賀さまの赤門で名代の前田加賀守の御守殿屋敷。
 本郷から下谷の根津わきまで跨って、屋敷の地内が十六万坪。
 竹逕の涼雨、怪巌の紅楓、蟠松の晴雪[#ルビの「せいせつ」は底本では「せいうん」]……育徳園八景といって、泉石林木の布置、幽邃をきわめる名園がある。
 北どなり、水戸さまの中屋敷にむいた弥生町がわの通用門から、てんでに丼や土瓶を持った老若男女があふれだし、四列ならびになってずっと根津権現のほうまで続いている。
 加賀さまの雪振舞。――加賀屋敷、冷てえ土だと泥土を舐め、と川柳点にもあるくらいで、盛夏の候、江戸の行事のひとつ。
 嘉永版の『東都遊覧年中行事』にも、『六月朔日、賜氷の節御祝儀、加州侯より氷献上、お余りを町家に下さる』と見えている。
 賜氷の節、また氷室の御祝儀ともいって、三月三日の桃の節句、五月五日の菖蒲の節句、九月九日の菊の節句についで古い行事で、仁徳天皇の御代に山ノ辺福住の氷室の氷を朝廷に奉って以来、六月朔日を氷室の節といい、西の丸では、富士氷室の御祝という儀式があり、大奥、御台所は伺候の大小名に祝いの氷餅をくださる。
 町家では、前の年の寒のうちに寒水でつくった餅を喰べてこの日を祝い、江戸富士詣りといって、駒込の真光寺の地内に勧請した富士権現に詣り、麦藁でつくった唐団扇や氷餅、氷豆腐などを土産にして帰る。
 六月朔日の氷室のお祝に、加州侯からお雪をさしあげることは、加賀さまの氷献上といって、これも古い行事のひとつ。
 延喜式の古式にのっとって、前の年の寒のうちに屋敷の空地の清浄な地に、深さ二丈ばかりの大穴を掘り、そこに新筵を敷いて雪をつめた桐の大箱をおさめる。
 そのまわりを数万坪の雪でかこい、雪の上に筵を厚くかけて高く土盛りをする。こうして春を過し、六月朔日、土用のさなかに穴をひらき、まわりの雪をのけて桐箱入りの氷を駕籠にのせ、一ツ橋御門から入ってすぐ御車寄まで行く。
 車寄についたお雪の桐箱は、御側用人、お坊主附添いでまず老中の用部屋まで運び入れ、用部屋から時計の間坊主、側用取次と順々に送られ、お待ちかねの将軍が、これを器に盛って、今年の雪は、ことのほか冷たいの、などと御賞美なさる。
 さて、加賀さまのお氷が西の丸へあがったと聞くと、本郷、下谷一帯の町家のものはもち…

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