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月夜
つきよ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本児童文学大系 第六巻」 ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日
初出「少女の友」実業之日本社、1918(大正7)年10月
入力者田中敬三
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2006-10-06 / 2014-09-18
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 お幸の家は石津村で一番の旧家でそして昔は大地主であつた為めに、明治の維新後に百姓が名字を拵へる時にも、沢山の田と云ふ意味で太田と附けたと云はれて居ました。それだのに祖父の時に自身が社長をして居た晒木綿の会社の破綻から一時に三分の二以上の財産を失ひ、それから続いてその祖父が亡くなり、代つて家長になつたお幸の父はまだやつと二十歳になつたばかりの青年であつた為め、番頭の悪手段にかゝつて財産を殆ど総て他へ奪はれてしまつたのでした。喜一郎と云つた其お幸の父も、お幸とお幸より三つ歳下の長男の久吉がまだ幼少な時に肺病に罹つて二年余りも煩つて歿くなりました。其時分にもう太田の家は石津川の向ひの稲荷の森の横の今の所へ移つて来て居ました。自家に所有権のあつた其沢山の田に取巻かれた三本松の丘の家は、今では村の晒問屋の山仁の別荘になつて居ることもお幸兄第にはお伽噺の中の一つの事実くらゐにしか思はれないのでした。お幸は強い性質の子でした。丘の三本松は好い形であると眺めることはあつても、感情的な弱い涙をそれに注がうとはしませんでした。この春高等小学校を卒業してからお幸は母が少しばかりの田畑を作ることゝ手仕事で自分達を養つて居るのを心苦しく思ひまして、自身の友であつた中村おつると云ふ人の親の家へ通ひ女中になつて行つて居ました。中村の家も亦晒問屋でした。お幸が中村家の手伝ひをするやうになつてからもう五月程になるのですがこの最近の四五日程苦しい思ひをさせられたことはありませんでした。お幸に親切な心を持つて居たおつるが九月の新学期から大阪の某女学校へ入る事になつて其地の親戚の家へ行つてしまつたことはお幸の為めに少なからぬ打撃と云はねばなりません。中村家には意地の悪い女中が二人居ました。お幸が通ひで夜遅くなつてからの用をしないのが二人には不平でならないことだつたのでせうが、おつるの居る間は目に見える程の迫害はしませんでした。中村家のお内儀さんは病身でしたから台所のことなどは二人の女中が切つて廻して居るのでした。お幸のしなければならない用事が無暗に殖えて来て自然お内儀さんの部屋へ行くことが少くなると、其処へはまた外の用をどつさりお幸に押し附けた女中の一人が行つて、お嬢様が見ていらつしやらないと思つて用事を疎かにすると云ふやうな告口がされて居ました。家へ帰つて家の用事をする人に夜分の食事はさせないでもいゝと云ふやうな無茶な理屈を拵へて、下男と下女が一緒に食べる夜の食卓にお幸の席を作つてやらないやうなことを二人の女中は仕初めました。家へ帰つて更に食事をすると云ふことは母親に済まないことのやうにお幸は思はれるものですから、昼の食事を少し余計目に食べて我慢をしようとすればまた二人の意地悪女はそれも口穢く罵りました。今日で丁度五日の間お幸は日に二食で過ごして来ました。
 お幸は中村家の裏口を出てほつと息を…

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