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天国の記録
てんごくのきろく
作品ID46158
著者下村 千秋
文字遣い旧字旧仮名
底本 「茨城近代文学選集Ⅲ」 常陽新聞社
1978(昭和53)年3月25日
初出「中央公論」1930(昭和5)年7月
入力者林幸雄
校正者富田倫生
公開 / 更新2012-05-04 / 2022-12-29
長さの目安約 78 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

[#ページの左右中央]


彼女等はかうして、その血と
肉とを搾り盡された


[#改ページ]



 三月の末日、空つ風がほこりの渦を卷き上げる夕方――。
 溝の匂ひと、汚物の臭氣と、腐つた人肉の匂ひともいふべき惡臭とがもつれ合つて吹き流れてゐる、六尺幅の路地々々。その中を、海底の藻草のやうによれ/\と聲もなくうろついてゐる幾千の漁色亡者。
 一つの亡者が過ぎて行くと、その兩側の家の小窓から聲がかゝる。遠くから網をなげかけてたぐり寄せるやうな聲、飛びついて行つてその急所へ喰ひつくやうな聲、兩手で掴まへて力一ぱいゆすぶるやうな聲、嘆聲をあげてあはれを賣るやうな聲、哀音をしのばせて可憐さを訴へるやうな聲。
「どうだえ、陽氣なもんだらう。」
 先に立つて歩いてゐた辰つアんは、後からついて來る周三とおきみの方へふり向いて、さう言ひかけた。
「まるで何だらう。夏の夜、谷川の道を歩いてると、それ、河鹿てえ奴の鳴き聲が、次ぎから次ぎへと新しく湧いて來る、ちやうどあれ見てえだらう。」
 周三もおきみもそれには答へなかつた。周三は、よれ/\の袷の裾下から現はした細い脚をひよろつかせながら、首を縮めて歩いてゐた。おきみは、からだの中に惡寒を感じながら、胸を顫はして歩いてゐた。彼女の耳には、女達の叫び聲が、地獄の底から漏れて來る可鼻叫喚に聞えた。
「何しろいゝ氣持ちのもんだよ。それが毎日毎晩、照つても降つても、三千人からの客がなだれ込むてえんだから、まつたく豪勢なもんだらう。おなじ働くんなら、こんな場所で働かなけりや嘘さ。」
 辰つアんはまたそんなことを言ひながら、叫びかける女共の聲へ頓狂な聲で答へたり、呼び込み口へ頭を突つ込んで、げすなことを吐き散らしたりした。
 暗い路地は、奧へ入るほど複雜してゐた。それはまるで蟻の巣であつた。辰つアんは、その中を右へ折れ、左へ曲つて、後の二人を案内してゐたが、とある角の青い軒燈のついた家の前へ來ると、その呼び込み口へ、モヂリの片袖を掛けて、
「こんばん」と聲をかけた。と、中から可愛い聲で、
「はい、こんばん、おあがんなさいな。」
「このおたんちん、お客ぢやねえや……ゐるかえ?」
「あら、辰つアんなの、いやに色男に見えたからさ……ゐるわよ、どうぞ。」
 辰つアんは、少し離れて立つてゐる周三とおきみの傍へ來て、
「ちよつと待つてゝくんな」と言ひながら、やつと人のからだが入れるほどの路地を、裏手の方へ入つて行つた。が、すぐ出て來て、
「こつちへお入りよ」と二人を手招いた。
 二人は、裏手の臺所から、三疊ほどの茶の間へ通された。そこの長火鉢の前には、銀杏返しの變に青つぽく光る羽織をだらりと引つ掛けた女が、いぎたなく坐つて卷煙草をふかしてゐた。
「こちらがおきみちやん、こちらが旦那樣、それからこれが、當家の御主人、お銀ちやん。」
 辰つアんは、そ…

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