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みち
作品ID46169
著者織田 作之助
文字遣い新字新仮名
底本 「世相・競馬」 講談社文芸文庫、講談社
2004(平成16)年3月10日
初出「文藝 九月号」1943(昭和18)年9月
入力者桃沢まり
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-04-28 / 2014-09-18
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今もそのアパートはあるだろうか、濡雑巾のようにごちゃごちゃした場末の一角に、それはまるで古綿を千切って捨てたも同然の薄汚れた姿を無気力に曝していた。そのあたりは埋立地のせいか年中じめじめした湿気が去らなかった。日の射さぬ中庭は乾いたためしはなかった。鼠の死骸はいつまでもジクジクしていた。近くの古池からはなにかいやな沼気が立ちのぼるかと思われた。一町先が晴れてもそこだけは降り、風は黒く渡り、板塀は崩れ、青いペンキが剥げちょろけになったその建物のなかで、人びとは古障子のようにひっそりと暮していた。そして佐伯はいわばその古障子の破れ穴とでもいうべきうらぶれた日日を送っていたのである。
 佐伯が死んだという噂が東京の本郷あたりで一再ならず立ち、それが大阪にいる私の耳にまで伝わってきたのは、その頃のことだ。本当に死んでしまったのかとそのアパートを訪れてみると、佐伯はまだ生きていて、うっかり私が洩らしたその噂をべつだん悲しみもせず、さもありなんという表情で受けとり、なにそのおれが死んだというデマは実はおれが飛ばしてやったんだと陰気な唇でボソボソ呟き、ケッケッというあやしい笑い声を薄弱な咳の間から垂らしていた。げっそりと肉が落ち、眼ばかり熱っぽく光らせた蒼白いその顔を見て、私は佐伯の病気もいよいよいけなくなったのか、なるほどそんな噂が立つのも無理はあるまいという想いにいきなり胸をつかれたが、同時に佐伯の生活にはもはや耳かきですくうほどの希望も感動も残っていず、今は全く青春に背中を向け、おまけにその背中を悔恨と焦躁の火でちょろちょろ焼かれているのではないかと思われて、慰める言葉も私にはなかった。
 ところが、その佐伯がすっかり変ってしまったのだ。亀のようにむっつりとしていた男が見ちがえるほど陽気になって、さかんにむだな冗談口を叩く。少しお饒舌を慎んだ方が軽薄に見えずに済むだろうと思われるくらいである。のべつ幕なしにしゃべっている。若い身空で最近は講演もするということだ。あれほどの病気もすっかり癒ってしまったとは思えないが、見たところピチピチして軽く弾んでいる。角がとれ、愛想の良くなったことは驚くばかりだ。血色のよい頬にその必要もなさそうな微笑を絶えず泛べている。以前は縦のものを横にすることすら億劫がっていた。枕元にあるものを手を伸ばして取ろうとしなかった。それが近頃はおかしいくらい勤勉になって、ひとの二倍も三倍も仕事をしてけろりとしている。もとは售れぬ戯曲を二つか三つ書いていたようだったが、今は戯曲のほかに演出にも手を出す。舞台装置もする。映画の仕事もする。評論も書く。翻訳も試みる。その片手間に随分多量の小説も発表するが、べつだん通俗にも陥らず、仕事のキメも存外荒くはない。まずはあっと息をのむような鮮かな仕事振りである。聴けば、健康診断のたびに医者は当分の静養をすすめるそ…

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