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危機における理論的意識
ききにおけるりろんてきいしき |
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作品ID | 46214 |
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著者 | 三木 清 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「現代日本思想大系 33」 筑摩書房 1966(昭和41)年5月30日 |
初出 | 「改造」1929(昭和4)年1月号 |
入力者 | 文子 |
校正者 | 川山隆 |
公開 / 更新 | 2008-02-12 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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思想の問題は今や思想の危機の問題として現われている。人々は到るところ、あらゆる機会において、思想の危機について語りかつ叫ぶ。しかし彼らは自己の語りつつあるもの、叫びつつあるものが何であるかを理解しない。いな、みずから理解することなく、理解しようと欲することなく、語りかつ叫ぶということがそれ自身また思想の危機のひとつの特徴である。思想の危機の叫びのうちに表現されるところのものは、理論的意識の欠乏であり、まさに「思想の貧困」である。けだし事物の本質を明らかにして思想を発展せしめることがかく叫ぶ者の目的でなく、彼らの目的はかえって正反対のものである。思想の危機を叫ぶことによってあたかも思想を窮迫せしめ、空虚ならしめ、かくて思想そのもののためでなく、むしろまったく他の意図のために謀ろうとすることが彼らの目的である。このときにあたって真実に思想を求める者は、彼らの叫びに迷わされ、驚かされ、恐れさせられることなく、自己の理論的意識をいよいよ鋭利ならしめ、果敢ならしめねばならぬ。そのためには思想の危機が本来いかなる意味のものであるかを明瞭にすることがなによりもまず必要である。
思想の危機とは、これを純粋に理論的に見るならば、一定の思想が自己の反対の思想へ転化してゆくことを意味する。この転化そのものはその思想にとって危機として現われる。思惟が一定の思想を真理としてそれに固執し、それを永久に自己同一的なものとしてどこまでも維持しようとするとき、この固執され、固定された自己同一性は、自己がまさに在るところのもの、すなわち一面性として、制限性としてみずからを現わすに到る。換言すれば、その思想は自己の偏見であることを顕わにするのである。しかるに一面性と制限性とは、あたかも一面性として、制限性として、虚偽である。かくて最初の真理は虚偽であることが分る。この自己批判によって一定の思想はその反対のものへ移ってゆく。この推移が思想の危機であり、したがって危機的とは批判的ということである。かくのごとき危機はまことに思想そのものにとって価値あるものでなければならぬ。なぜなら、それによって初めて思想は運動し、発展し得るからである。思想はその対立者によって否定されると同時に、このものの媒介によって自己の一面性と制限性とを脱して自己を止揚する。抽象的なものは具体的となる。かかる過程を通して対象は初めて全面的に把握されるに到るのである。このようにして危機こそ思想の富を作るものであり、生命をなすものである。危機のないところには、ただ凝固と死がある。
もしそうであるならば、真理を求める思想家にとっては、思想の危機はまさに歓迎すべきものである。自己の思想を否定するもの、それに矛盾するものが現われるとき、彼はいたずらに悲しんだり、恐れたり、憤おったりすることをしない。彼はそこに自己の思想の批判の契機を見…