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読書遍歴
どくしょへんれき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「現代日本思想大系33」 筑摩書房
1966(昭和41)年5月30日
初出「文芸」1941(昭和16)年6月~12月号
入力者文子
校正者川山隆
公開 / 更新2007-02-23 / 2014-09-21
長さの目安約 73 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

      一

 今日の子供が学校へも上らない前からすでにたくさんの読み物を与えられていることを幸福と考えてよいのかどうか、私にはわかない[#「わかない」はママ]。私自身は、小学校にいる間、中学へ入ってからも初めの一、二年の間は、教科書よりほかの物はほとんど何も見ないで過ぎてきた。学校から帰ると、包を放り出して、近所の子供と遊ぶか、家の手伝いをするというのがつねであった。私の生まれた所は池一つ越すと竜野の町になるのであるが、私は村の小学校に通い、その頃の普通の農家の子供と同じように読み物は何も与えられないで暮らしてきた。父の代になってからは商売はやめてしまったが、今でも私の生家は村でも「米屋」と呼ばれているように、その時分はまだ祖父が在世していて、米の仲買をやり小売を兼ね、またいくらか田を作ってもいた。村の人々と同じに暮らして目立たないことが家の生活方針であり、私も近所の子供と変らないようにしつけられた。中学に通うことになってからも、私はつとめて村の青年と交わり、なるべく目立たないように心掛けた。私は商売よりも耕作の手伝いが好きであった。つまり私は百姓の子供として育ったのである。雑誌というものを初めて見たのは六年生の時であったと思う。中学の受験準備のための補習の時間に一緒になった村の医者の子供が博文館の『日本少年』を持ってきたので、それを見せてもらったわけである。私はそんな雑誌の存在さえも知らないといった全くの田舎の子供であった。町へ使いに行くことは多かったが、本屋は注意に入らないで過ぎてきた。今少年時代を回顧しても、私の眼に映ってくるのは、郷里の自然とさまざまの人間であって、書物というものは何ひとつない。ただあの時の『日本少年』だけが妙に深く印象に残っている。その頃広く読まれていた巌谷小波の童話のごときも、私は中学に入ってから初めて手にしたのであった。田舎の子供には作られた夢はいらない。土が彼の心のうちに夢を育ててくれる。
 かような私がそれでも文芸というものを比較的早く知ったのは、一人のやや無法な教師のおかげである。やはり小学六年のことであったと記憶する、受持の先生に竜野の町から教えに来ておられた多田という人があった。この先生はホトトギス派の俳人であったらしく、教室で私ども百姓の子供をとらえてよく俳句の講釈を始め、ついには作文の時間に生徒に俳句を作らせるほど熱心であった。ある時私の出した句が秀逸であるというので、黒板に書いて皆の者に示し、そして高浜虚子が私と同じ名の清だから、私も虚子をまねて「怯詩」と号するがよいといって、おだてられた。号というものを付けてもらったのはこれが初めでまた終りでもあるので、今も覚えている。この先生によって私は子規や蕪村や芭蕉の名を知り、その若干の句を教えられた。『ホトトギス』という雑誌は、中学の時、いわゆる写生文を学ぶつもり…

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