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巷説享保図絵
こうせつきょうほうずえ
作品ID46228
著者林 不忘
文字遣い新字新仮名
底本 「巷説享保図絵・つづれ烏羽玉」 立風書房
1970(昭和45)年7月10日
入力者kazuishi
校正者久保あきら
公開 / 更新2009-12-27 / 2014-09-21
長さの目安約 530 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

    金剛寺坂


      一

「お高どの、茶が一服所望じゃ」
 快活な声である。てきぱきした口調だ。が、若松屋惣七は、すこし眼が見えない。人の顔ぐらいはわかるが、こまかいものとくると、まるで盲目なのだ。その、見えない眼をみはって、彼はこう次の間のほうへ、歯切れのいい言葉と、懐剣のようにほそ長い、鋭い顔とを振り向けた。
 冬には珍しい日である。梅がほころびそうな陽気だ。
 この、小石川金剛寺坂のあたりは、上水にそって樹が多い。枝の影が交錯して、畳いっぱいにはっている。ゆれ動いている。戸外は風があるのだ。風は、あけ放した縁からそっと忍び込んできて、羽毛のようにふわりと惣七の頬をなでて、反対側の丸窓から逃げて行く。それによって惣七は、一室にすわりきりでいながら、世の中が春に近いことを知っている。
 若松屋の茶室である。いや、茶室であると同時に、惣七の帳場でもあるのだ。三尺の床の間に、ささやかな経机、硯箱、それに、壁に特別のこしらえをして、貸方、借方、現金出納、大福帳などの帳簿が下がっている。状差しに来書がさしてある。口のかけた土瓶に植えた豆菊の懸崖が、枯れかかったまま宙乗りしている。そんなような部屋なのだ。あるじ若松屋のごとく、すべてが簡素である。悪くいえばさびしい。よくいえば寂ているというのだろう。
 次の間へ投げた惣七の声には、すぐ反響があった。はい、と口のなかで答えて、女がたったのだ。衣ずれの音がした。すうっと襖がすべって、このへんでは珍しい下町風俗の、ようすのいい女のすがたを吐き出した。すんなりした肩、はやりの絵のようなからだつき、眉が迫って、すこし険のあるのが難だが、それも、しいてあらを探してのことで、見ようによってはかえって、すごい美しさを加えている顔である。
 ちょっと膝をついて背後をしめる。向き直って、三つ指を突いた。お高である。お屋敷ふうなのだ。
「あの、お呼びなされましたか」
「おう。茶が一ぱい飲みとうなった。風で、ひどいほこりだな」
 惣七の癇癖らしい。眼の不自由な人のつねで、指さきの感触が発達している。いいながら、畳をなでた。風が土砂を運んできてざらざらしている。顔をしかめた。
「咽喉が、かわく。雨も、久しく降りませぬな。いつであったかな。後月の半ばであったかな、降ったのは」
「はい。いいおしめりが一つほしゅうございます」
「茶を、もらおう」
「はい」
 お高は、切り炉へ向かって斜にすわって、ふくさを帯にはさんだ。湯加減をみて、ナツメを取りあげた。薄茶をたてようというのだ。
「もういらぬ」
 惣七がいった。
「は!」
 お高は、顔を上げた。不可解の色が、お高の貌をあどけなく見せている。そのせっかくの美しさが、よく惣七に見えないのが、惜しかった。
 惣七は、いらいらした。
「茶は、いりませぬ」
「はい」
「急な手紙を思い出したのだ。…

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