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服部先生の思出
はっとりせんせいのおもいで
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「讀書籑餘」 みすず書房
1980(昭和55)年6月30日
初出「漢學會雜誌 第七年第三號」1939(昭和14)年11月5日
入力者はまなかひとし
校正者染川隆俊
公開 / 更新2011-04-07 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 先生と私は年齡の上では一歳しか違はないが、大學の年次は先生の方が五年も先輩で在學中から御盛名は承つて居た。殊に文部省から北京留學を命ぜられ、いろ/\な苦勞を倶にしてからは特に親密な交際をして戴くやうになつた。元來、文部省からの海外留學は例外なしに歐米行であり、又文科大學の方では外國文學の留學生は派遣しなかつたのであるが、どうした機運からか、明治三十二年に東西大學總長の推薦で最初の支那留學生として、先生と私の二人が選ばれたのである。先生は早速同年の冬に赴かれ、私は文部省の都合もあり、渤海灣の結氷のため翌年四月になつて出發した。天津について北京行の汽車に乘つたが、その終點といつて降ろされたとき、私はすつかり面喰つた。坦々として北京が何處か分らぬのである。そこは馬家堡といふ小村で、正陽門に辿りついたのは車で半時間以上も搖られた後のことであつた。當時の北京は道路も惡く衞生状態も行き屆かず、日常生活も極めて不自由であつたが、しかし近代化せず歐米の影響も現はれてゐぬ支那本來の姿が殘つてゐたのは、私達にとつては幸ひだつたと思ふ。正陽門までは先生がわざ/\お出迎へ下さつて、車をつらねて東西北六條胡同の宿舍に案内された。そこは以前に公使館のあつたところで、當時は武官室となり、柴中佐(後の大將)等がおられた。先生もそこを宿舍にしておられ、私にも一室を準備して下さつてゐたのである。尤も直接の紹介で東京で中佐に御願はして置いたが先生のお口添や御配慮のお蔭も大いにあつたのである。
 同じ屋根の下で起居を倶にするやうになつてからは、何分先生は四ヶ月も先に來ておられることであり、言葉もお達者なら事情にも通達しておられ、何かと御指導にあづかつた。當時の北京は近代化してゐぬ代りに不自由なことも夥しく、今では北京名物になつてゐる洋車もその頃は東單牌樓のあたりに交民巷を中心にしてボツ/\とあるだけ、郵便は一々交民巷内の海關まで通帳をもつて出向かねばならず、我々の日用品を賣る店は隆福寺街にたゞ一軒だけ、殊に面倒なのは通貨で、錢舖の基礎が薄弱なために折角換へた鈔票はいつ不通になるやら分らぬ上に、その流通範圍が極めて狹く、隆福寺で換えた票は琉璃廠では通らなかつた。且又當時は戊戌政變の後で、保守排外の風潮が濃く、夜の外出などは思もよらず、白晝でも一人歩きはせず、いつも二人で外出することが多かつた。すべてがそんな譯で學者を訪問したり又交際することなどはもとより望めず、漸くに語學の練習と、琉璃廠隆福寺の書肆行と、二人が特に留意してゐた歐米人の支那に關する著述を上海からとり寄せて閲讀することゝ、そして不自由な北京見物とが、二人の出來るすべてゞあつた。かうしたいろ/\と厄介なところにゐて、殆んど何の失敗もせずにすんだのは全く先生の御蔭であつて、學問上ではもとよりのこと、その常識に富み日常の瑣事に通じ、學識と常…

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