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作品ID46350
著者織田 作之助
文字遣い新字新仮名
底本 「定本織田作之助全集 第八巻」 文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日
初出「大阪文学」1943(昭和18)年10月
入力者桃沢まり
校正者松永正敏
公開 / 更新2006-09-30 / 2014-09-18
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 御たより拝見しました。
 拙作を随分細かく読んで下すって、これでは作者たるものうっかり作品が書けぬという気がしました。もっとも、うっかり書いたというわけでもないのですが。
 自作を語るのは好みませんが、一二お答えします。
 まず「新潮」八月号の「聴雨」からですが、高木卓氏が終りが弱いといわれるのも、あなたが題が弱いといわれるのも、つまりは結びの一句が「坂田は急ににこにこした顔になった。そうして雨の音を聞いた」となっていることをいわれたのであろうと思います。どういう雨かとのお問いですが、はて、どういう雨でしょう。この小説の冒頭に「雨戸を閉めに立つと池の面がやや鳥肌立って、冬の雨であった」と書いてあります。「私」は書斎で雨を聴き、坂田翁も雨を聴いたのです。「春雨じゃ濡れて行こう」などという雨ではありません。ただ、雨の音を聴いたのです。それだけです。冒頭の「私」が聴く雨と最後の坂田翁の聴く雨とを照応させて「聴雨」としたのです。因みに坂田翁が木村八段と対局した南禅寺の書斎には「聴雨」の二字を書いた額が掛っていたとのことです。
 次にこの小説で「私」を出したのはどういう秘密かとのお問いですが、これはあくまで秘密として置きましょう。ただ、僕が「私」を出さずに、この小説を書いたらそれはどういう小説になったかを考えてみて下さい。僕には作風をかえる上からも「私」が必要だったのです。といって、僕は私小説を書いたのではありません。また、坂田三吉を書いたのではありません。
 この「私」の出し方と「文芸」九月号の出し方は、すこし違います。作中に「オダ」という人名が出て来ますが、これは読者が佐伯は作者であるなど思われると困りますので、「オダ」が出て来るのです。
「聴雨」でもこの小説でも、作風は語り物の形式を離れて、分析的になっていることはお気づきのことと思いますが、もともと僕はそういう作風であったので、今のスタイルをつくるためにせいぜい「私」を出しているわけです。佐伯=作者の想念が「私」のために邪魔されたといっておられますが、計画的に邪魔をして行っているわけです。
 次に、表現を色彩へ持って行くことが誇張だとは、どういうことでしょうか。「眼の前が真っ白になる」と。「青ざめた顔」はむしろ月並みです。しかし、僕は「赤い咳」という表現を出すために白と青を持って来たのです。ここで「赤い」といったのは「恐怖」の表現です。この「赤」は佐伯の頭に喀血の色と見えるのです。
 冒頭の一節、「古雑布」「古綿を千切る」「古障子」などの形容は勿論あなたのおっしゃるように視覚的ではありません。しかし、視覚的というのは絵と映画に任せて置きましょう。僕らは漬物のような色をした太陽を描いてもよいわけではありませんか。
 友田恭助を出したのが巧を奏したとおっしゃいますが、あそこは僕としては一番気になるところです。失敗…

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