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(私はさきごろ)
(わたしはさきごろ)
作品ID46364
著者高村 光太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集第4巻」 小学館
1989(平成元)年4月1日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2007-01-30 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私はさきごろミケランジェロの事を調べたり、書いたりして数旬を過ごしたが、まったくその中に没頭していたため、この岩手の山の中にいながらまるで日本に居るような気がせず、朝夕を夢うつつの境に送り、何だか眼の前の見なれた風景さえ不思議な倒錯を起して、小屋つづきの疎林はパリのフォンテンブロオの森かと思われ、坂の上の雪と風とに押しひしがれてそいだような形になっている松の木はあのローマの傘松を聯想させ、見渡すかぎりの清水野のゆるい起伏はローマ郊外のいわゆるカムパーニヤ ロマーノの展望にさえ見えるのであった。炉辺で眼をつぶると、何だかアルノオ河の河岸の石だたみや、ポンテ ヴェッキオの橋が近所にあるように思われたり、遠くの空にローマのサン ピエトロの円屋根が聳えていたりする。今は一九五〇年の冬のはじめで、ここは日本東北地方の山の中だという現実がうそのように思えたりした。
 そういう心的状態の中で私はまっすぐにミケランジェロを凝視した。この稀有な人間の正体がどんなものであるかを見きわめようとした。私の脳裏のミケランジェロはその行蔵の表裏矛盾にみちしかも底の底ではただ一本道を驀進するタンクのような人間であった。一体彼がとって動かぬ根本のささえとなったものは何であろう。時代の常識から考えればむろんそれは神であり、クリストであり、マリアであったといわねばならず、彼も亦神をかき、クリストを画き、マリアを画き、且つ石で彫り、神に祈る多くの詩を書いた。心のきしめく時必ず神をよんだ。だが、彼の神とは何であろう。どう考えてもそれはヴァチカン宮の中に居ない神のようである。彼自身が画にかき、彫刻に彫った神やクリストやマリアのようなものではなかったようだ。彼は十三四の頃から聖書によみ耽り、又ダンテの「神曲」に魂を奪われていたのであるから、それらのものが彼の内に形づくった素朴な映像が次第に増大して、後年の多くの製作となったには違いないが、その映像も最初はやはり先人の遺した多くの伝統的映像に養われたものであろうし、結局それは一つの仮設の世界のものであり、伝説的存立としての仮象であるから、彼の自らつくる神なりクリストなりマリアなりが、彼の内なる生きた神なりクリストなりマリアなりと同じであったとはうけ取れない。彼が一生涯に作った多くのそれらの絵画彫刻は、彼にとってまことに絵画であり彫刻であったに過ぎず、神やクリストやマリアはその絵画彫刻の伝説的主題として純粋な芸術的意味の外に意味は持たなかったに違いない。彼の内なる神とはただ犯し難い自然の理法の事であり、クリストとは人間の中の人間の事であり、マリアとは母の中なる母の事であったというより外はない。彼はクリスト教オルソドックスのまっただ中に生き、至上者法王と常に顔を合せながら、彼はまったくその外側に息づいていた。彼はそれらのもののドグマをそのままには受取らず、…

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