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触覚の世界
しょっかくのせかい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集第4巻」 小学館
1989(平成元)年4月1日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2007-01-14 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私は彫刻家である。
 多分そのせいであろうが、私にとって此世界は触覚である。触覚はいちばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的なものであると言える。彫刻はいちばん根源的な芸術である。
 私の薬指の腹は、磨いた鏡面の凹凸を触知する。此は此頃偶然に気のついたことであるが、ガラスにも横縦がある。眼をつぶって普通の玻璃面を撫でてみると、それは丁度木目の通った桐のサツマ下駄のようなものである。磨いた鏡面はさすがにサツマ下駄でもないが、わずか五寸に足りない長さの間にも二つ程の波がある事を指の腹は知るのである。傾斜の感覚を薬指は持っているのであろう。鏡面の波動を感ずる味わいは、丁度船のおだやかなピッチングのようである。少し快よい眩暈を感じさせる程度である。
 人は五官というが、私には五官の境界がはっきりしない。空は碧いという。けれども私はいう事が出来る。空はキメが細かいと。秋の雲は白いという。白いには違いないが、同時に、其は公孫樹の木材を斜に削った光沢があり、春の綿雲の、木曾の檜の板目とはまるで違う。考えてみると、色彩が触覚なのは当りまえである。光波の震動が網膜を刺戟するのは純粋に運動の原理によるのであろう。絵画に於けるトオンの感じも、気がついてみれば触覚である。口ではいえないが、トオンのある絵画には、或る触覚上の玄妙がある。トオンを持たない画面には、指にひっかかる真綿の糸のようなものがふけ立っていたり、又はガラスの破片を踏んだ踵のような痛さがあるのである。色彩が触覚でなかったら、画面は永久にぺちゃんこでいるであろうと想像される。
 音楽が触覚の芸術である事は今更いう迄もないであろう。私は音楽をきく時、全身できくのである。音楽は全存在を打つ。だから音楽には音の方向が必要である。蓄音機やラジオの音楽が大した役を為さないのは、其れが音の方向を持たないからである。どんなに精巧な機械から出て来ても此複製音は平ったい。四方から来ない。音楽堂の実物の音楽は、そこへゆくと、たとい拙くとも生きている。音が縦横に飛んで全身を包んで叩く。音楽が私を夢中にさせる功徳を、ただ唯心的にのみ私は取らない。其は斯かる運動の恐ろしい力が本になっているのである。私は昔、伊太利のある寺院で復活祭前後に聴いたあの大オルガンの音を忘れない。私はその音を足の裏から聞いたと思った。その音は全身を下の方から貫いて来て、腹部の何処かで共鳴音を造りながら私の心に届いたようにおぼえている。
 音楽の力が生理的要素から来るのは分かり切った事である。ワグネルの或音楽をきくと若い独逸人は知らぬ間にポルーションを起すという。私にはその経験こそなけれ、其れに近い恍惚を感ずる事は事実である。音楽に酔うというのは卑近に言えば酒に酔うというよりも、むしろマッサアジに酔うという方が近い。どうかすると性に酔うようなも…

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