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蝉の美と造型
せみのびとぞうけい
作品ID46374
著者高村 光太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集第4巻」 小学館
1989(平成元)年4月1日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2007-01-14 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私はよく蝉の木彫をつくる。鳥獣虫魚何でも興味の無いものはないが、造型的意味から見て彫刻に適するものと適さないものとがある。私は虫類に友人が甚だ多く、バッタ、コオロギ、トンボ、カマキリ、セミ、クモの類は親友の方であり、カマキリの三角あたまなどには殊に愛着を感じ、よく自分の髪の毛を抜いて彼に御馳走する。カマキリは人間の髪の毛が非常に好きで進呈すると幾本でも貪り食う。恐れるという事を知らない彼の性質も中々おもしろい。しかし彼は彫刻にはならない。形態が彫刻に向かない。バッタ、コオロギも其点では役に立たない。トンボには銀ヤンマのような堂々たる者もあり、トオスミトンボのような楚々たる者もあり、アカトンボのようなしゃれた者もあって、一寸彫刻に面白そうに思えるが、これがやはり駄目。彫刻的契機に乏しい。作れば作れるが作ると却て自然の美と品位とを害い、彫刻であるよりも玩具に近い、又は文人的骨董に類するものとなる。其点でセミは大に違う。彼はその形態の中にひどく彫刻的なものを具えている。しかも私が彼を好むのはむろん彫刻以前からの事である。
 子供は皆この生きた風琴を好む。私も子供の頃夏になると谷中天王寺の森の中を夢中に馳けまわって彼をつかまえた。モチの木の皮をはいで石でたたいて強いモチを作り、竹竿のさきに指をなめては其をまきつける楽しさを今でも稍感傷的に思出す。私はなぜかクモの巣の糸を集めて捉えるという方法を当時知らなかった。これは最近になって聞いた方法である。これで採れるなら此の方がよい。翅を傷めないに違いない。セミが思いがけなく低い木の幹などに止まって鳴いているのを発見すると、まったく動悸のするほど昂奮する。今でもする。

 私は夏の夕方など時々モデル漁りに出かける事があるが多くは自分では獲れず、顔なじみの子供等にもらって来る。セミがあの有りったけの声をふりしぼるように鳴きさかっているのを見ると、獲るのも躊躇させられるほど大まじめで、鳴き終ると忽ちぱっと飛び立って、慌ててそこらの物にぶつかりながら場所をかえるや否や、寸暇も無いというように直ぐ又鳴きはじめる、あの一心不乱な恋のよびかけには同情せずにいられない。よびかける事に夢中になっていて呼びかける目的を忘れてしまったのではないかと思うほど鳴く事に憑かれている。実際私はセミが配偶者を得たところを見た事が無い。

 東京にはジイジイ、アブラ、ミンミン、ツクヅクボウシ、カナカナ位しか居らず、ハルゼミ、チッチゼミ、クマゼミ、エゾゼミなどは居ないようである。私が実際手にして見たのはそれ故甚だ種類少く、この中でもハルゼミ、エゾゼミはまだ見ない。クマゼミは先年熱海で松の木のてっぺんに鳴いているのを見たが竿が届かず、手にはとれなかった。ジイジイが一番質朴で顔も眼が離れていてとぼけている。アブラは大きくて、精悍で、野蛮で、がんばり強く、その声…

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