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朝顔日記の深雪と淀君
あさがおにっきのみゆきとよどぎみ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「青眉抄・青眉抄拾遺」 講談社
1976(昭和51)年11月10日
初出「大毎美術 第三巻第四号」1924(大正13)年4月
入力者鈴木厚司
校正者川山隆
公開 / 更新2007-06-03 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 美人画といって画家が美人を専門に描くようになったのは日本では浮世絵以後のことだろうと思われますが、浮世絵画家のうちで私は春信と長春が好きです。
 近頃、しきりに若い人達に流行っている女の絵に対してはどうもわたしには賛成の出来かねる節が沢山あります。女の画を描くといえば必ず美人を描かねばならないとも思いませぬが、すでに芸術であり美術である以上、作られた作品がただ単に醜悪不快の念を観る人に与えるばかりでは、芸術としての価値が減ずるようにさえ思われます。したがってここに人々に依って異なる芸術観も出るわけでありましょうけれども、近頃流行っている女の絵を見ますと、毒々しいほどに肥った顔、手足、まるで女の相撲取を見るように不快な感じを与えられるのが沢山ありますが、人々の趣向が美しくなくともせめて不快でない程度に向って欲しいものだと思います。
 画家が描こうとする画題を他から限定される性質のものでないことはいうまでもありませぬから、ある場合には乞食を採り入れる必要のあるような構図が出来るかも知れませぬ。たとえばそのような場合にしましても、乞食の醜悪のみを写し出して、観る者に不快の念を与えるような図にしなくとも済まされるはずだと思います。乞食は乞食にしても、何処かに芸術になる何かを持っているはずです。それを捜し出し写し出すところに芸術家の使命があると思います。醜女の醜を描く必要のある場合にしましても、幽霊の凄さを出す必要がある場合にしましても、それらがほんとうの意味の芸術に触れているとしますれば、きっと観る者に不愉快を与えないはずだと思われます。ほんとうの芸術は観る者に不快の念を与えるものではないはずだと思います。
 と言いましても、人にはそれぞれ好き不好きもありましょう。私にしても好き不好きがないとは申しませぬ。けれども私は、美人の美しさというものに偏した見かたをしたくないと思います。鈴のような眼の女には愛嬌を認め、細い眼の女には上品さがあります。長い顔にも円顔にもそれぞれに特長があります。そしてそれらは皆それぞれに美人の資格となることが出来ると思います。――こう見て来ますと、どんな女が美しいという固定した言いかたは出来ないことになって来ると思われます。
 時代から言いましても、桃山には桃山の特長があり、元禄には元禄の美しさがあると思います。強いて言えば現代の風俗が一番芸術味に乏しいと思います。尠くも私は現代のハイカラ姿が一番嫌いです。
 現代は女の扮装法にしましても、化粧法にしましても昔に較べれば、較べものにならないほど各方面とも著しく進歩して便利になっているはずですのに、なぜその風俗が非芸術的に見えるのでしょう。それは、女自身がそれぞれ自分の性質なり姿顔形なりにしっくりふさわしいものがどれだというしっかりした考えがなくて、ただ猫の目のように遷り変わる流行ばかりを追う…

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