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好きな髷のことなど
すきなまげのことなど
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「青眉抄・青眉抄拾遺」 講談社
1976(昭和51)年11月10日
初出「大毎美術 第九巻第五号」1930(昭和5)年5月
入力者鈴木厚司
校正者川山隆
公開 / 更新2007-06-06 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     茶の袴

 私が画学校に行っていた時、学校の古顔に前田玉英さんがいました。その頃二十二、三ぐらいの年頃だったと思うが、画学校では女の生徒に茶の袴を穿かせることになっていたので、私らも茶の袴を穿き、袴を穿くのだからというので靴を買ってもらったことを覚えています。

     束髪

 その頃、というと明治二十一年頃、えらい何も彼も西洋が流行った頃で、束髪がちらほら出かけていました。後ろを円く三ツ組に編んで網をかぶせ、前髪を切って下げるのが最初に流行った型でした。玉英さんはそうした流行の風をしていられた。私も束髪を結ったことがあります。それに薔薇の花簪など[#挿絵]したものでした。

     着物の柄

 着物には黒襟がかかっていました。柄は細かい地味なのが流行りまして、十三詣りの時に着た着物を、私は今でも着ていますが、結構可笑しくなく着られます。着物の柄は、後になればなるほど荒く華美になって来ています――一体がそんな風でした。

     黄八丈に黒縮緬

 今から思えばいくらでも可笑しいほどの思い出があります。私の二十二、三の頃、明治三十年頃になりますと、その頃男の人が、黄八丈の着物に黒縮緬の羽織を着ることが流行りました。松年先生や景年さんなど、皆そうした風をしていられたものです。

     はわせと桃割

 私の家は四条通りの今の万養軒のあるところで葉茶屋をしていましたが、私の十九の時火事で焼けました。粉本や写生など皆焼いてしまいました。その向いの、今の今井八方堂さんのお店が、小町紅でした。お店に人が並んで、小皿にせっせと紅を刷いていると、いつも田舎から出て来た人が買いに集っていたものです。町の娘さんたちも買いに来ました。その頃の娘さんたちがよくはわせに結っていたのを覚えています。はわせというのは、今の鬘下地の輪毛を大きくしたもので、鬘下地に較べるとズッと上品なものです。
 その頃桃割を結っている娘さんもありました。桃割もいいものだけれど、はわせに較べるとどこか味がない気がします。

     揚巻

 日清戦争頃から明治三十年前後にかけて揚巻が流行りました。先年鏑木清方さんが帝展に出された「築地明石町」の婦人が結ってたのがそれですが、今でもあいさにあれを結った人を見受けることがあります。皮肉な意気なものです。
 それをあの当時には、大きく華美に上げたり、小さくちんまりしたりしていました。その上げ方の大小で名も変わるかも知れませんが、あれによく似た髪形で英吉利巻と呼んだのもありました。

     華美な東京の女

 大阪に尾形華圃という閨秀画家がいて、私より三つほど年上でしたが、その人と連なって東京博覧会の時にはじめて東京見物に行ったのでした。日光などにも行って一週間ばかり見物して廻りました。
 何か百貨店みたいなところで、女の人達が年寄や…

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