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少数と多数
しょうすうとたすう
著者
翻訳者伊藤 野枝
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 伊藤野枝全集 第四巻 翻訳」 學藝書林
2000(平成12)年12月15日
入力者門田裕志
校正者Juki
公開 / 更新2009-08-21 / 2014-09-21
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私は現代の傾向を要約して「量」であると云ひたい。群衆と群集精神とは随所にはびこつて「質」を破壊しつつある。今や私どもの全生活――生産、政治、教育――は全く数と量との上に置かれてゐる。且て自己の作品の完全と質とにプライドを持つてゐた労働者は自己に対しては無価値に一般人類にとつては有害な多額の物品を徒らに産出する無能の自働機械に変つてしまつた。かくして「量」は人生の慰藉と平和とを助くるに反し、唯だ人間の重荷を増加した。
 政治に於ては量以外に何物も省みられない。量の増加につれて、主義、理想、正義等は悉く多数者の為に没却せられてしまふ。政治上の種々なる党派は常に虚偽と欺瞞と狡猾と陰謀を逞うして相互の主権を争つてゐる。成功さへすれば勝利者として必ず多数者の歓迎を受ける――彼等は皆さう信じてゐる。成功――それのみが唯一の神。品性に対してどれ程恐しい価を払つてゐるかといふ事はまるで問題にもしてゐない。私どもは今更進んでこの悲しい事実を証拠立てる必要はない。
 政府の腐敗と堕落とがあばかれて今の様にはつきりと目前に示されたことはこれまでにないことである。数年の間、人民の権利自由の保護者と仰がれ、社会制度の本綱として全然誹難の外に立つてきた政府がか程迄にユダの如き性質を現はさうとは私どもの全く思ひ設けなかつたところである。
 かの党派の罪悪が次第に厚顔になつてきて盲人さへそれを見分けることが出来るやうになつた時、彼等は自党に対する阿諛追従者を頻りに召集するの必要に迫られた。而してその権勢は愈々確立せられた。幾度となく欺かれ、裏切られ、蹂躙せられた犠牲者等はひたすら勝利者のためにのみ計つた。困惑せる少数者はこの時、亜米利加の自由はどうしてこの様に多数者のために裏切られたのであるか?と訊ねた。かくの如きことを敢へて行つた多数者の判断と推理力とは何処にあつたのであらう? 多数者には推理などいふことは出来ないのだ。判断などいうものは皆無なのだ――ただそれのみ。徹頭徹尾独創力と道義的勇気とを欠いてゐる多数者は常に自己の運命を他の手に托した。自己の責任を負ふて立つことが出来ない彼等は指導者の導くがままに奈落の淵にまでも追従せんとするのである。『われ等の中にあつて最も恐るべき真理と正義との敵は団結せる多数者である。呪はれたる群衆である』と叫んだストツクマンは正しかつた。凡そ群衆の如く革新を憎むものはあるまい。彼等には新しき第一歩を踏み出す力もなければアンビシヨンもないのである。彼等は常に新しき真理の革新者、先駆者を弾劾し迫害し来つたのである。
 現代は個人主義の時代であり、少数者の時代であるとは全ての政治家、社会主義者を問はず一様に提唱し又屡々繰返される鯨波である。只だ浅薄皮層に止まる人々のみかくの如き見解によつて惑はされるかも知れない。如何にも少数者は世界の富を蓄積した。彼等は実に現…

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