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愛の為めに
あいのために
作品ID46587
著者甲賀 三郎
文字遣い新字新仮名
底本 「幻の探偵雑誌5 「探偵文藝」傑作選 」 光文社文庫、光文社
2001(平成13)年2月20日
初出「探偵文藝 第2巻第4号」奎運社、1926(大正15)年4月号
入力者川山隆
校正者土屋隆
公開 / 更新2006-12-29 / 2014-09-18
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        夫の手記

 私はさっきから自動車を待つ人混みの中で、一人の婦人に眼を惹かれていた。
 年の頃は私と同じ位、そう二十五六にもなるだろうか。年よりは地味造りで縺毛一筋ない、つやつやした髷に結って、薄紫の地に銀糸の縫をした半襟、葡萄の肌を思わせるようなすべすべした金紗の羽織、帯や着物など委しい事は私に分らないけれども、それらのものが、健康を思わせる血色、撫でたような然し肉付の好い肩つき、楚々とした姿にすっかり調和して、ほんとうに私の好きな若奥さん型なのだ。もっと気に入った事は、抱いている赤ン坊が、生れて半年位かしら、女の子らしいが、頬べたが落ちそうに肥って、文字通り林檎のようで、自分の身体の三倍位の大きさの、眼の醒めるような派手な柄の友禅に包まっているのが、なんと愛らしい事だ。女中なんか伴に連れないで、お母さんの手で抱いているのが耐らなく好い。
 でも、自動車を待っている多くの人達は、この奥さんの事などは考えていないらしかった。その人達はちっとでも早く乗ろうと思って、前へ前へと出て行くのだった。自動車が人々の前へ止った時には、奥さんはいつの間にか後の方になって、未だその後から押して来る人達との間に揉み込まれて終った。
 私はほんとうにしようのない人達だと思って、犇めき合う群集を見ていた(この東京駅の前から出る呉服店行の自動車は店の人がついていて世話をしている時は、みんな渋々一列に並ぶけれども、誰もいないとすぐこれだ!)。
 私は別にあわてて乗ろうとはしなかった。実を云うと私は、呉服店などに用のある人間じゃあないのだ。毎日毎日疲れた足を引摺って、減った腹を抱えて、就職口を探している哀れな青年なんだ。父親と衝突さえしなければ、今年あたりは学校を卒業して、親の光で、苦労もせず相当な地位が得られたんだろうが、そんな事を今更悔んだ所で仕方がない。今も丸ビルの五階の或る会社へ出かけて、体よく断られて出て来た所で、もう今日は中途半端になって、どこと云って行く当もないし、裏長屋の一間で淋しく待っている妻の所へ帰ろうかと思ったが、ふと眼の前を走って来た赤く塗った、呉服店の自動車を見て、久し振りでそこへ行って見ようと云う気を起したのだった。
 あまり混雑するので、乗ろうか乗るまいかと決し兼ねている中に、又一台自動車がやって来た。群集の半分は忽ちその車の前へ集って中の人が降り切らないうちから犇めき出した。私は人波に押されて運よくその新しく来た車の前の方へ出る事が出来た。ふと見るとさっきの奥さんが、之も人に揉まれて、赤ン坊をつぶされまいと一生懸命に庇いながら、直ぐ私の傍へよろめいて来た。私は直ぐ自動車に乗る事に決めた。そうしてデッキに片足をかけて、奥さんに、
「赤ちゃんを抱っこしましょう」
 と声をかけて、奥さんの返辞を聞かないうちに、もう赤ン坊を受取って、中へ飛び込ん…

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