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山を想ふ
やまをおもう
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「現代日本紀行文学全集 東日本編」 ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日
初出「三田文学」1926(大正15)年10月
入力者林幸雄
校正者門田裕志
公開 / 更新2003-10-11 / 2014-09-18
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

富士の嶺はをみなも登り水無月の氷のなかに尿垂るとふ
 與謝野寛氏の歌だ。近頃の山登の流行は素晴しい。斷髮洋裝で舞踏場に出入し、西洋人に身を任せる事を競ふ女と共に、新興國の産物である。一國の文化に古びがついて來ると、人々は無闇に流行を追はなくなるが、國を擧げてモダアンといふ言葉に不當の値打をつけてゐる心根のはびこる限り、生理的に山などへ登つてはいけない時期にある娘もいつしよになつて神域を汚す事は、活動寫眞じこみの身振と共にすたらないであらう。高きに登りて小便をする程壯快な事は無いと云つた人があるが、女もその快感を味ははんが爲めに、汗臭くなつて健脚をほこり、土踏まずの無い足で富士の嶺を踏つけ、日本アルプスを蹴飛ばすのか。
 机にむかつて無責任にこんな事を考てゐる私は、むげに登山熱に反對するものでは無い。實は私も充分時間があつたら、山頂の曉に放尿する快感を味はひ度いのである。望んで行へないので、些かやけ氣味になつてゐるかもしれない。
 日常生活に追はれてゐる私には時間が無い。自由に遊ぶ休息の時間が充分に惠まれてゐない。勤務先の會社の内規としては、一年間に二週間を限つて請暇を認められてゐるが擔當してゐる仕事の性質上、私はそれ丈の休暇をとつた事が無い。今年の如きは、上役が突然退職したので、一日も休めなかつた。或は今後も、世間所謂使用人の地位を脱しない限り、幾年の間休暇の無い生活を送るのでは無いかとさへ悲觀する事もある。そして、机にむかひつゝ海を想ひ山を想ふのである。年齡の關係か、年々海よりも山の姿に心が向くやうになつた。むかし富士山に登つた時、砂走で轉んで擦むいた膝子の傷痕を撫でながら、日本晴の空にそそり立つ此の國の山々の姿を想ひ描くのである。
 山といふと、私は第一に淺間山をなつかしく思ふ。燒土ばかりの富士の山は、遙かに下界から仰ぎ見るをよしとする。空氣の固く冷たい信濃の高原の落葉松の林の向うに烟を吐く淺間は生きて居る。詩がある。私はまだ、山の彼方に幸ひの國があると夢見てゐた少年の日に登つた。
 もつとも、一度は麓迄行つて大雨の爲めに追拂はれてしまつた。既に二十二三年前の事である。當時の相棒と東京を立つ時は、先づ長野に行き、それから輕井澤に引返して淺間へ登らうといふ計畫だつた。
 古びた記憶の中に、旅で逢つた二三の人の姿がはつきりと殘つてゐる。その中には、汽車に乘合せた旅役者の群もある。座頭らしい薄痘瘡の男、その女房、十二三の娘、色の青白い黒眼鏡の女形らしい男、その男に寄添つてゐる十八九の田舍娘。空想好の私は、外の者とは口もきかず、寧ろおど/″\しながら、只管隣席の男に身も心もゆだねた樣子でもたれかゝつてゐる田舍風の女を見て、旅役者にだまされて家を捨てたのでは無いかと想ひ、硯友社時代の小説のやうにはかない行末を作りあげて同情した。しかし、さういふ女がゐたといふ事はは…

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