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滑川畔にて
なめりがわほとりにて
作品ID4661
著者嘉村 礒多
文字遣い旧字旧仮名
底本 「現代日本紀行文学全集 東日本編」 ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日
入力者林幸雄
校正者松永正敏
公開 / 更新2004-05-31 / 2014-09-18
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 北鎌倉で下車して、時計を見ると十時であつた。驛前の賣店で簡單な鎌倉江の島の巡覽案内を買ひ、私とユキとは地圖の上に額と額とを突き合せて、圓覺寺の所在をさがしても分らなかつた。
「圓覺寺といふのは、どちらでございませうか?」
 ユキが走つて行つて、そこの離々と茂つた草原の中の普請場で鉋をかけてゐる大工さんに訊いて見てから、二人は直ぐ傍の線路を横切り、老杉の間の古い石磴を上つて行つた。
 ……夏とは言へ、私には、雜誌に携はる身の何彼と多忙で、寸暇もない有樣だつた。私どもの住んでゐる矢來の家の周圍は、有閑階級の人達ばかりで、夏場はみな海や山に暑さを避けて、私ども夫婦は、さながら野中の一軒屋に佗び住むやうな思ひであつた。夕食が濟むと、私は六疊に仰向けになつて團扇を使ふ。暗い電燈、貧弱な机、本箱一つ、雨の夜の淋しさ――大體そんな風の感じである。
 私達は低い聲で話し合ふのであつた。
「けふね、前の田部さんの六つになるお孃ちやんと仲よしのこの坂を下りたところの子供がね、母親に連れられて前の家に遊びに來ましたのよ、そしていつものやうに、友ちやん、遊ばない、といつて門を入ると、友ちやんの姉さんが、友子はきのふから鎌倉へ避暑ですよつて、ちよつと得意な口調で言ひますと、その子供の母親は、文ちやんも明日から父ちやんと日光へ行くのです、ね文ちやん、さあ歸りませう、と言つて歸りましたの。それがほんとのことか、それとも子供のさびしい氣持を思ひやる母親のその場の出まかせか、聞いてゐてわたしをかしかつたんですよ」
 或晩、こんなことをユキから聞かされてゐるうち、突然私は、ユキのために鎌倉行を思ひ立つたのである。元來、私は旅行や散策は嫌ひのはうで、處々方々を歩きまはるといふやうな心の餘裕を憎みたく、大抵の場合一室に閉ぢ籠ることが永年の習癖になつてゐる。でも、一昨年の春の頃、妹夫婦が逗子に來てゐたことがあり、一日、私達は妹夫婦を訪ねての歸途、鎌倉驛で降りて、次の汽車までのわづかの時間で、八幡宮と建長寺とにお詣りして此方、鎌倉だけは何時かゆつくり見て置きたい氣もちがあつた。ユキも、始終、鎌倉に行きたい、江の島が見たい、長谷の大佛さんを拜みたいと、絶えず言ひ/\してゐたものなので、圖らず願ひの叶つた彼女の喜びは、だから一通りではなかつた。が、ちやうど雜誌に面倒な問題が持ち上つてゐて、日がついのび/\になつた。
 前の晩ユキは、一帳羅の絹麻をトランクから取出し、襦袢の襟もかけかへ、きちんと疊んで部屋の隅に置き、帶や足袋もいつしよにその上にのせて支度を揃へた。お握りを持つて行きませうか? とユキは言つた。私は笑つてゐた。ユキは、小學校時代の遠足のやうな稚い考を抱いてゐた。寺の境内とか、松原の中とか、溪澗のほとりや砂丘の上で風呂敷の包みを解き、脚をのばして携へて來たお辨當を使うて見たいのであつた……。

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