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序に代えて人生観上の自然主義を論ず
じょにかえてじんせいかんじょうのしぜんしゅぎをろんず
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の文学 77 名作集(一)」 中央公論社
1970(昭和45)年7月5日
初出「近代文芸之研究」1909(明治42)年6月
入力者川山隆
校正者土屋隆
公開 / 更新2007-04-22 / 2014-09-21
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 私は今ここに自分の最近両三年にわたった芸術論を総括し、思想に一段落をつけようとするにあたって、これに人生観論を裏づけする必要を感じた。
 けれども人生観論とは畢竟何であろう。人生の中枢意義は言うまでもなく実行である。人生観はすなわち実行的人生の目的と見えるもの、総指揮と見えるものに識到した観念でないか。いわゆる実行的人生の理想または帰結を標榜することでないか。もしそうであるなら、私にはまだ人生観を論ずる資格はない。なぜならば、私の実行的人生に対する現下の実情は、何らの明確な理想をも帰結をも認め得ていないからである。人生の目的は何であろうか。われらが生の理想とすべきものは何であろうか。少しもわかっていない。
 もちろんかような問題に関した学問も一通りはした、自分の職業上からも、かような学問には断えず携わっている。その結果として、理論の上では、ああかこうかと纏まりのつくようなことも言い得る。また過去の私が経歴と言っても、十一二歳のころからすでに父母の手を離れて、専門教育に入るまでの間、すべてみずから世波と闘わざるを得ない境遇にいて、それから学窓の三四年が思いきった貧書生、学窓を出てからが生活難と世路難という順序であるから、切に人生を想う機縁のない生涯でもない。しかもなおこれらのものが真に私の血と肉とに触れるような、何らの解決を齎らし来たったか。四十の坂に近づかんとして、隙間だらけな自分の心を顧みると、人生観どころの騒ぎではない。わが心は依然として空虚な廃屋のようで、一時凌ぎの手入れに、床の抜けたのや屋根の漏るのを防いでいる。継ぎはぎの一時凌ぎ、これが正しく私の実行生活の現状である。これを想うと、今さらのように armer Thor の嘆が真実であることを感ずる。



 私はどうしたらよかろうか。私は一体どうして日々を送っているか。全くのその日暮し、その時勝負でやっているのだろうか。あながちそうでもないようである。事実、自分の日常生活を支配しているものは、やっぱり陳い陳い普通道徳にほかならない。自分の過去現在の行為を振りかえって見ると、一歩もその外に出てはいない。それでもって、決して普通道徳が最好最上のものだとは信じ得ない。ある部分は道理だとも思うが、ある部分は明らかに他人の死殻の中へ活きた人の血を盛ろうとする不法の所為だと思う。道理だと思う部分も、結局は半面の道理たるに過ぎないから、矛盾した他の半面も同じように真理だと思う。こういう次第で心内には一も確固不動の根柢が生じない。不平もある、反抗もある、冷笑もある、疑惑もある、絶望もある。それでなお思いきってこれを蹂躙する勇気はない。つまりぐずぐずとして一種の因襲力に引きずられて行く。これを考えると、自分らの実行生活が有している最後の筌蹄は、ただ一語、「諦め」ということに過ぎない。その諦めもほんの上っ面の…

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