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しゃもじ(杓子)
しゃもじ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「『たぬき汁』以後」 つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日
入力者門田裕志
校正者松永正敏
公開 / 更新2007-01-15 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 二、三日前、隣村の老友が私の病床を訪れて、例の「しゃもじ」がまた出たという。
 貴公が、出あったのか。
 いや、僕ではない、近所の青年が度胆を抜かれよった。
 さては、彼の狸め、今もって頑健であるとみえるな。
 怪物「しゃもじ」のことについては拙著「狐火記」のうちに書いておいたが、しかしこのような剽軽な変化は、二度と再び出るものではあるまいと当時考えていたから、このたび再び出現したというのをきいては、まことに今昔の感に堪えない。
 今から、四十二、三年も昔のことであるから、私の青年時代である。隣村の東箱田にある村役場へ用事があって、ある日の午後から出かけていくと、折りよくこの老友も役場で雑談に耽っていた。
 今は既に老友となったけれど、この老友も私と同じに歳は若く、気は盛んであった。久し振りの機会であったので、役場の小使に頼んで、濁酒一升を取り寄せた。われら二人は、豪酒であったから、僅かに一升を酌みあったのでは、腹の虫の機嫌に触れぬ。
 とはいえ、季節は折柄養蚕上簇に際し、百姓は働けども働けども忙しい。しかも、働き盛りの青年が、酒をあおって節季を等閑視したとあっては、荒神さまに申しわけがたたぬであろう。
 貴公、今日はこれだけで、次回を期すということにしようじゃないか。
 よかろう。だがな、二人でもう五合ほしいじゃないか――。いや待て、腹の虫を抑えるのはここだ。
 惜しい最後の一盃を呑み干し役場を出た。友は役場の前を出るとすぐ左手へ曲がって別れ、近くのわが家の方へ帰って行った。私は、野道を東に向かい、わが村の方へ急いだのである。
 初夏の微風が、ほんのりとした頬を爽やかに吹いて快い。六月はじめの田圃は麦の波が薄く黄褐色に彩られて、そよそよとしているけれど、桑は濃緑色に茂り合い、畑から溢れんばかり盛り上がっている。なんと豊満な野面の風景であろうと思いながら、感服して歩いた。
 役場のある東箱田と、私の村との、ほぼ中間に殿田用水の石橋がある。石橋の手前の方二十間ばかりは、路の両側に桑畑が森の如く茂り合っている。路の幅は、一間半あるかないか。
 永き夏の陽も、西に没して空の茜色も消え去り、行く手のほの暗い東天低く、宵の明星がきらめき光っている。鬱蒼と茂る桑畑の路に歩を進めると、ここはもう淡暗だ。
 理屈があったわけではない。予感があったわけでもない。桑畑と桑畑との間の、うすくらがり路へ一歩入ると、私の背中は俄に、ぞくぞくした。
 甚だ妖しき、ぞくぞく感である。これは妙だと思った途端。
 その途端に、私の眼に映った異形のものがある。路の左側の、桑畑の茂った上に、淡墨色の空を背景として、しゃもじ形の怪物が、にょろにょろと浮かび上がった。しゃもじは昔から農家で使うところの、木彫りの味噌汁しゃもじだ。
 大きさは、およそ畳一枚くらい。しゃもじの柄は、くらげの足のように、…

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