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魔味洗心
まみせんしん
作品ID46755
著者佐藤 垢石
文字遣い新字新仮名
底本 「『たぬき汁』以後」 つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日
入力者門田裕志
校正者松永正敏
公開 / 更新2007-01-23 / 2014-09-21
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 二、三日前、隣村の嘉平老が、利根川で蜂鱒を拾った。鱒を拾うというのは妙な話であるが利根川では珍しいことではない。
 蜂鱒というのは、蜂を食って眼をまわした鱒をいうのである。一体、鱒科の魚は飛んでいる羽虫が大好物であって、利根川の鱒もこの類であるから、蝶でも虻でも蜻蛉でもかげろうでもおよそ水面に近い空間を飛んでいる虫を見れば水中から躍りだして、一気にそれを、ぱくりと食ってしまう。
 蜻蛉や虻であるならば鱒の腹へ入ると、すぐ死んでしまうであろうけれど、もしそれが蜂であった場合には、簡単にはすまない。そしてそれが熊蜂であったなら、鱒の奴、ひどい目にあうのだ。
 胃袋へ嚥み下したところで足長蜂や蜜蜂であったなら、間もなく往生しようが、大きな熊蜂であると、軽くは死なぬ。胃袋のなかで盛んに暴れ回りながら、あの鋭いそして猛毒を含んだ針で滅多矢鱈に胃袋を刺すから、いかに大きな鱒でも堪ったものではないのである。
 忽ち、全身に毒が回って神経が麻痺し、失神状態となり、波に浮きながら上流から下流へ、ふわりふわり流れてきたり、水際へ打ち寄せられてきたところを、人間に拾われる次第になるのであろう。鱒の身にとってみれば、まことに辛き目にあうわけだ。
 さて、嘉平老の拾った蜂鱒は、九百六、七十匁ほどあって、まず一貫目近い大ものである。半死半生の失神状態となって、上新田の雷電河原のしも手へ流れついたのであるから、末だ全く死んでしまっているわけではない。鮮味、実に賞すべきものがあったであろう。
 わが上州には、おいしい産物が数々ある。山の幸、野の幸、水の幸、とりどりである。私は利根川の鱒の味を、わが上州のおいしいもののうちのその司に推したい。
 冷たい潮流に乗って北洋から太平洋岸に沿って下ってきた鱒は、三月中旬には銚子、香取、取手、権現堂、妻沼、本庄裏へと、次第に上流へ上流へと遡ってきた鱒は、既に三月中旬にはわが上新田の雷電神社地先の利根の激流に姿を現わすのである。
 至味の季節は六、七、八、九の四ヵ月で四、五両月にはまだ脂肪が乗ってこぬので、その味は夏の頃に及ばない。また九月が過ぎて十月、十一月になると産卵期に入るので全身の脂肪が腹の生殖線に吸収されて、肉の味が甚だ劣ってくる。
 ところで、夏から初秋へかけての四ヵ月間の鱒の鮮醤はこれを何にたとえようか。魔味とはこの肉膚を指すのではないかと思う。上品にして細やかな脂肪が全身に乗って淡紅の色目ざむるばかりだ。
 刺身、塩焼き、照り焼き、潮汁、うま煮など。肉を箸につまんで舌端に乗せれば、唾液にとけて、とろとろと咽喉に落ちる。風味、滋味、旨味、いやほんとうに何とも申されぬ。この鮮醤の持つ舌への感覚は魔味と称して絶讃するほかに言葉がないであろう。
 一尾三、四百匁位までの小物は、まだ肉に旨味が乗ってこない。しかし、七、八百匁から一貫五、六百匁ほど…

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