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文芸とヒロイツク
ぶんげいとヒロイック
作品ID4685
著者夏目 漱石
文字遣い新字旧仮名
底本 「漱石全集 第十六巻」 岩波書店
1995(平成7)年4月19日
初出「東京朝日新聞 文芸欄」1910(明治43)年7月19日
入力者砂場清隆
校正者小林繁雄
公開 / 更新2003-04-10 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 自然主義といふ言葉とヒロイツクと云ふ文字は仙台平の袴と唐桟の前掛の様に懸け離れたものである。従つて自然主義を口にする人はヒロイツクを描かない。実際そんな形容のつく行為は二十世紀には無い筈だと頭から極めてかゝつてゐる。尤もである。
 けれども実際世の中にない又は少ないと云ふ事実と、馬鹿げてゐる、滑稽であると云ふ事実とは違ふべき筈である。吾々の見渡した世間にさう眼につく程ごろ/\してゐない物のうちには、常人さへ唾棄して顧みなくなつた(従つて存在の権利を失つた)のも沢山あるだらうが、貴重なため容易に手に入りかねるのも随分あるべき訳である。ヒロイツクは後者に属すべきものと思ふ。
 自然派の人が滅多にないからと云ふ理由でヒロイツクを描かないのは当を得てゐる。然し滅多にないからと云ふ言辞のもとにヒロイツクを軽蔑するのは論理の昏乱である。此派の人々は現実を描くと云ふ。さうして現実曝露の悲哀を感ずるといふ。客観の真相に着して主観の苦悶を覚ゆるといふ。一々賛成である。けれども此苦悶は意の如くならざる事相に即し、思ひの儘に行かぬ現象の推移に即し、もしくは斯くあれかし、斯くありたしとの希望を容れぬ自然の器械的なる進行に即して起る矛盾扞格の意に外ならぬ。云ひ換れば客観の世界が主観の世界と一致をかくが為である。現実が吾に伴はざるの恨みである。又云ひ換ればわが理想がわが頭の中に孤立して、世態とあまりに没交渉なるがためである。冷刻なる自然がわが知識と情操と意志を侮蔑して勝手に横着に非人間的に社会を動かして行くからである。
 自然主義者の所謂主観の苦悶を斯く解釈するとき、理想の二字を彼等の主観中より取り去る事は困難とならねばならぬ。広義に於ける理想を抱かざるものが、自己又は他人の経過した現実を顧みて、之を悲しむの必要もなければ之に悶ゆるの理由もない筈である。
 一たび此論断を肯つたとき、彼等は彼等の主観のうちに、又彼等の理想のうちに、彼等の平素排斥しつゝあるが如く見ゆる諸の善、諸の美、又もろ/\の壮と烈との存在を肯はねばならぬ。従つてヒロイツクは彼等の主張せんと欲して、現実に見出しがたきが為めに、これを描くを憚り、もしくは之を描くを恐るゝ一種の行為と云はねばならぬ。
 彼等にしてもし現実中に此行為を見出し得たるとき、彼等の憚りも彼等の恐れも一掃にして拭ひ去るを得べきである。況んや彼等の軽蔑をや虚偽呼りをやである。余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を読んで、此ヒロイツクなる文字の、我等と時を同くする日本の軍人によつて、器械的の社会の中に赫として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである。自然派の諸君子に、此文字の、今日の日本に於て猶真個の生命あるを事実の上に於て証拠立て得たるを賀するものである。彼等の脳中よりヒロイツクを描く事の憚りと恐れとを取り去つて、随意に此方面に手を着けしむるの保証と…

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