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けむり(ラヂオ物語)
けむり(ラジオものがたり)
作品ID46851
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集6」 岩波書店
1991(平成3)年5月10日
入力者kompass
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-07-28 / 2014-09-16
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 さて、みなさん。
 と、呼びかけてはみましたが、どなたがどんな顔をして聴いておいでになるか、さつぱり見当がつきません。
 相手があつて、なきが如く、話す方はまことに調子が取りにくいのですが、
 何処からともなく、声だけが聞えて来る。それが、何のなにがし作るところの物語であつたといふ。
 この世の不思議も亦、昭和の春の夜の一興でせう。
 見渡すところ、今、作者の周囲には、これといふ面白い話もありません。
 現代の文化は、遠いものを近くするといふところに、ひとつの特色があるのではないかと思ひますので、勝手をゆるしていたゞければ、時と場所とを少しばかり遠いところに選びます。
 標題は、やけくそで、「けむり」とつけてみました。ラヂオの逆をゆく、形ばかりで音のしないといふ洒落になりますか、どうか……。
 先づ、今を去る十五六年前、欧洲大戦の幕が下りた、そのすぐ後の、陸にも海にもまだ血腥い印象の数々を残してる時代を思ひ出して下さい。

奏楽(伊太利風の行進曲)
 一千九百二十年の春が、伊太利半島の爪先から這ひ上つて、はるか北の国境に近づきはじめました。
 そこは、ヴエルサイユ条約の結果、新らしく敵国墺太利から奪ひ取ることになつた、チロルといふ山国です。

 アルプスの南斜面を形づくつてゐるこの地方は、
 古い歴史と、美しい自然と、淳朴な生活とが、見事な調和を保つてをります。
 目近に、白い山々の峯が光つてゐます。その中腹から緑の牧場が、ゆるやかな起伏を見せて、谷へ伸び、そこで、はじめて、灰色に翳つた小さな部落のひとかたまりを浮き出させるのです。
 糸杉に覆はれた麓の小径を降りて行きませう。首に鈴をつけた羊の群に出会ひます。それが若し夕方なら、羊飼の少年は、慌たゞしく角笛を吹き鳴らします。崖をよぢ登る仔羊を、犬が後から追ひ上げます。四つ辻に来ると、少年は立ち止ります。基督の十字架像が、夕焼の空を背にして立つてゐるからです。少年はその前に跪きます。折りも折り、村の教会堂からは、祈祷の鐘が鳴り響くでせう。
 さあ、帰りを急がなければなりません。近道をして、林檎畑を抜けて行きます。林檎の花は、もう、ちらほら、咲いてゐます。
 村の入口です。
 乳桶を提げた少女が、たつた一人、静まり返つた町の中を歩いてゐます。
「エリザ!」
 羊飼の少年は、かう叫びました。
 娘はふり返りました。多分、返事の代りに笑つてみせたのでせう。
 その後姿は、もう広場を横切つて、一軒の、とある見すぼらしい家の踏段を上つてゐました。
「なにを愚図々々してた。」
 奥から父親の、我武者羅な声が迎へました。
「だつて。……」
 と、娘が何か云ひ返さうとするのを遮ぎつて、
「さあ、早く支度をしろ。ブレンネル・ホテルから迎ひが来てゐる。」
「ブレンネル・ホテル……あら、今時分……?」
「えらいお客様だ。国境画定…

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