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癩を病む青年達
らいをやむせいねんたち
作品ID46898
著者北条 民雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 北條民雄全集 上巻」 東京創元社
1980(昭和55)年10月20日
初出「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社、1980(昭和55)年10月20日初版
入力者Nana ohbe
校正者富田晶子
公開 / 更新2016-12-05 / 2016-09-09
長さの目安約 32 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

序章

 他の慢性病もやはりさうであらうが、癩といへども、罹つたが最後全治不可能とはいへ、忽ちのうちに病み重るといふことはなく、波のやうに一進一退の長い月日を過しつつ、しかし満ちて来る潮のやうに、波の穂先は進んでは退き進んでは退きしつつやがて白い砂地を波の下にしてしまふ。さういふ風に病勢が進行を始めると患者達は「病気が騒ぎ出した」と云ひ、停止すると「落着いた」と云ふ。そして一騒ぎある毎に一段一段と病み重つて行くのである。唯一の治療法たる大楓子油の注射も効能は勿論あるとは云ひながら、しかしそれも進行の速度をゆるめるといふ程度に過ぎず、本質に於ては病気の進行は時間の進行と平行してゐるのである。ただ毀れかかつた時計のやうに、一時進行を中止してはまた急いで動き出すといふ調子である。もつともなかにはその中止すらもなくただ病み重つて行く一方の者もある。かういふのは湿性(菌陽性)には少く、乾性(菌陰性)に多い。
 成瀬信吉もここへ来た始めの頃は懸命に注射すれば治癒することもあらうと思つてゐたのではあつたが、やがてさうした考へが如何に病気に対して無知な甘い考へであつたかに気付かねばならなかつた。今になつて思ひ当るのであるが、ここへ来て間もない頃、まだ十一二歳のあどけない女の児が、年長の男に「早く良くなつて帰るんだよ」と冗談半分に云はれた時「あたいの病気は解剖室に行かなきや癒らないんだい」と答へたのを彼は聞いたのであつた。現在なほその女の児を見る度にその時のことを彼は思ひ出すが、この純真そのもののやうな少女が、自分は解剖室へ行く以外に何処へも行き場のないことを意識してゐるのかと、暗憺たる気持になるのであるが、しかしこれは真実の言葉であつた。――そして入院後八ヶ月ほど過ぎた頃、成瀬の病気も突如「騒ぎ」始めたのであつた。
 もう梅雨は終つてゐたが、毎日晴れ亙つた日とてはなく、それかと云つて降りもせず、じめじめとむし暑いかと思ふと急に袷を着たいやうな底冷がしたりしてずつと奇妙な天候が続いてゐたのである。かうした暑さ寒さの不安定は癩者の肉体を木片のやうに飜弄する。その日は成瀬自身も朝からなんとなく頭が重く、妙に体が熱つぽいやうには思つてゐたのであるが、例のやうに印刷部(患者達の手で、この病院の機関紙や文芸雑誌やその他薬袋などを印刷してゐる。成瀬は校正係を頼まれてゐた)へも仕事に行きちよつと風邪でもひいたのであらうと思つてゐたのだつたが、夕方になつて全身ぞくぞくと寒気がし始め、頭まで痛み出した。仕方なく床を敷き、ズボン下を脱いだとたんに、さすがにあつと彼も叫ばねばならなかつた。彼の左足は膝小僧から下ずつとすでに麻痺してをり、大腿部も表側の方は感覚を失つてゐた。その麻痺した部分一帯に点々と熱瘤が出てゐるのであつた。熱瘤といふのは医学的には急性結節と云はれてゐるさうであるが、しかしその実体…

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