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覚え書
おぼえがき
作品ID46901
著者北条 民雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 北條民雄全集 下巻」 東京創元社
1980(昭和55)年12月20日
入力者Nana ohbe
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-10-22 / 2019-02-24
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 癩文学といふものがあるかないか私は知らぬが、しかしよしんば癩文学といふものがあるものとしても、私はそのやうなものは書きたいとは思はない。私にとつて文学はただ一つしかないものである。癩文学、肺文学、プロ文学、ブル文学など、或は行動主義、浪漫主義など、文学の名目は色々と多いやうであるが、しかし文学そのものが一つ以上あるとはどうしても思はれぬ。文学が手段化した時に文学はもう堕落の一歩を踏み出してゐるのだ。詩と散文とを区別することすら、私はなんとなく不自然を感じてならぬ。
 それはともかく、私は実はドストエフスキーを読みたいのだ。純正なリアリズムの大道はドストエフスキーを措いて他にないと私は考へてゐるのだ。

 小林秀雄のドストエフスキー論を読んで何時も感じる不満は、氏の科学的な正確さにある。ドストエフスキーの偉大は、このやうな正確さは踏みにじつてしまふであらう。だから氏のド論を読み進めてゐると、私は何時もハラハラした危つかしい気持を味はねばゐられない。それなら一体どうすればいいのだらう、ただ読んで共感するだけだ。J・M・マリのドストエフスキー論の立派さは、この共感をぶちまけてゐることろにあると私には考へられる。がその点批評文としては小林氏にはるかに及ばない。ここにおいて最も純正なドストエフスキー論者は、彼と同一の頭脳組織を有し、同一の精神生活をなし得る人間が、更にその自己を客観視し得る自意識の所有者であらねばならぬ。

 阿倍知二氏の「冬の宿」が完結した。日本文学の貧弱が時々問題になるが、このやうに立派な小説も生れるやうになつたのだ。この作は本年度日本文学の一大收穫たるを失はぬ。ただ残念なのは氏がもつと大胆にならなかつたといふことだ。そして私の感じる不満は、この小説の日本的な性格にある。もつと氏が思ひ切つて日本的な性格を蹴りつけてくれたら、どんなに胸がすつとすることだらう。氏は文学界の雑記に、高の今後を探りたいといふやうなことを書かれてゐたが、私は高など監獄に入らうが死なうが勝手にしろだ。私が欲しいのは主人公だ。作者はもつと主人公を叩くべきだ。もつとどやしつけるべきだ。なんなら癩病院に投げ込んで貰ひたいくらゐだ。あれだけ色々のことを感じ、反省の過剰に悩まされてゐながら、虚無から抜け出ようとしないのはどう考へても腹が立つ。作者がもつとぶん撲らないからだ。だからこの主人公には成長も発展もない、全く霧島嘉門と同一の人間だ。嘉門は刺戟によつて子供のやうに行動するが、主人公は刺戟によつて反省するだけだ。嘉門と主人公はだからひどく相違するやうでありながら、実は全く同一だ。嘉門が肉体的行為を遂行するに反して、主人公は反省といふ心理的行為(行為と言へないかも知れないが)をする相違があるだけだ。だから主人公も嘉門もみな古いタイプの人間だ。過剰意識といふことが何か新しいもののやうに…

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