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鳥影
とりかげ
作品ID4695
著者石川 啄木
文字遣い旧字旧仮名
底本 「石川啄木作品集 第三巻」 昭和出版社
1970(昭和45)年11月20日
初出「東京毎日新聞」1908(明治41)年11月1日~12月30日
入力者Nana ohbe
校正者林幸雄
公開 / 更新2007-02-25 / 2014-09-21
長さの目安約 177 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

   其一

      一

 小川靜子は、兄の信吾が歸省するというふので、二人の妹と下男の松藏を伴れて、好摩の停車場まで迎ひに出た。もと/\鋤一つ入れたことのない荒蕪地の中に建てられた小さい三等驛だから、乘降の客と言つても日に二十人が關の山、それも大抵は近村の百姓や小商人許りなのだが、今日は姉妹の姿が人の目を牽いて、夏草の香に埋もれた驛内も常になく艶めいてゐる。
 小川家といへば、郡でも相應な資産家として、また、當主の信之が郡會議員になつてゐる所から、主なる有志家の一人として名が通つてゐる。總領の信吾は、今年大學の英文科を三年に進んだ。何と思つてか知らぬが、この暑中休暇を東京で暮すと言つて來たのを、故家では、村で唯一人の大學生なる吾子の夏毎の歸省を、何よりの誇見で樂みにもしてゐる、世間不知の母が躍起になつて、自分の病氣や靜子の縁談を理由に、手酷く反對した。それで信吾は、格別の用があつたでもなかつたが、案外温しく歸ることになつたのだ。
 午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未だ着かない。姉妹を初め、三四人の乘客が皆もうプラットフォームに出てゐて、[#挿絵]か南の方の森の上に煙の見えるのを、今か今かと待つてゐる。二人の妹は、裾短かな、海老茶の袴、下髮に同じ朱鷺色のリボンを結んで、譯もない事に笑ひ興じて、追ひつ追はれつする。それを羨まし氣に見ながら、同年輩の見窄らしい裝をした、洗洒しの白手拭を冠つた小娘が、大時計の下に腰掛けてゐる、目のショボ/\した婆樣の膝に凭れてゐた。
 驛員が二三人、驛夫室の入口に倚つ懸つたり、蹲んだりして、時々此方を見ながら、何か小聲に語り合つては、無遠慮に哄と笑ふ。靜子はそれを避ける樣に、ズッと端の方の腰掛に腰を掛けた。銘仙矢絣の單衣に、白茶の繻珍の帶も配色がよく、生際の美しい髮を油氣なしのエス卷に結つて、幅廣の鼠のリボンを生温かい風が煽る。化粧つてはゐないが、七難隱す色白に、長い睫毛と恰好のよい鼻、よく整つた顏容で、二十二といふ齡よりは、誰が目にも二つか三つ若い。それでゐて、何處か恁う落着いた、と言ふよりは寧ろ、沈んだ處のある女だ。
 六月下旬の日射がもう正午に近い。山國の空は秋の如く澄んで、姫神山の右の肩に、綿の樣な白雲が一團、彫出された樣に浮んでゐる。燃ゆる樣な、好摩が原の夏草の中を、驀地に走つた二條の鐵軌は、車の軋つた痕に激しく日光を反射して、それに疲れた眼が、[#挿絵]か彼方に快い蔭をつくつた、白樺の木立の中に、蕩々と融けて行きさうだ。
 靜子は眼を細くして、恍然と兄の信吾の事を考へてゐた。去年の夏は、休暇がまだ二十日も餘つてる時に、信吾は急に言出して東京に發つた。それは靜子の學校仲間であつた平澤清子が、醫師の加藤と結婚する前日であつた。清子と信吾が、餘程以前から思ひ合つてゐた事は、靜子だけがよ…

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